みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!
今回は、広島県広島市にあるイタリア料理店「di Grotto TAMAZAWA(ディ グロット タマザワ)」のシェフである玉澤良樹さんを取材しました。
玉澤さんは、2023年5月に発症した脳梗塞により重度の右半身麻痺があるも、発症からわずか半年でお店を再開し、現在は片手で調理を行いながら、こだわりの味を届け続けていらっしゃいます。
本記事では、玉澤さんの病気発症当時のお話や、入院中のリハビリの様子、退院後の生活やこれから挑戦したいことについてご紹介します。
料理人・玉澤良樹さん
◆ 玉澤 良樹(たまざわ・よしき)さん
1963年生まれ、広島県広島市出身。東京の大学卒業後、飲食業界へ飛び込み、経験を積む。1999年に地元広島に戻り、飲食店や食品メーカーで勤務したのち、2014年6月に広島駅西側にある「エキニシ」エリアに、イタリア料理店「di Grotto TAMAZAWA(ディ グロット タマザワ)」をオープン。2023年5月に脳梗塞を発症し、右半身に重度の麻痺が残るも、懸命なリハビリの末、わずか半年で営業再開。片手で調理を行いながら、こだわりの味を届け続けている。
私はもともと食べ歩きが好きで、飲食業界に興味を持ちました。「定年を迎える頃には自分のお店を持ちたい」という夢も抱くようになります。
東京の大学を卒業後、アメリカ企業のシーフード料理店「レッドロブスター」に入社し、6年間勤務。その後、フランス飲食店「ダロワイヨ」の銀座や自由が丘の店舗で勤務した後、36歳のときに父の病気をきっかけに地元広島へと戻りました。
広島では飲食店や食品メーカーで経験を積みつつ、46歳の頃から「自分の店を持つ」という夢が現実味を帯びてきました。フレンチの経験も経て、性格的に自分にはイタリアンが合っていると感じ、広島のイタリアンでアルバイトをしながら準備を進めました。
そして2014年6月20日、51歳のときに、広島駅西側にある「エキニシ」エリアに、イタリア料理店「di Grotto TAMAZAWA(ディ グロット タマザワ)」をオープンしました。そこから約9年間、週6日の営業を続けながら、こだわりの味を広島の人々に届けてきました。
リハビリ生活のはじまり
実は、私も広島市の病院で働いていた頃、よくお店に足を運ばせてもらっていました。季節の食材を使った前菜から、パスタやリゾット、メイン、デザートまで、どれを食べても絶品で、飲み物のセレクトも素晴らしく、本当に大好きなお店です。
ですが、2023年の6月にお店に電話をした時から繋がらなくなり、その後も何度かけても連絡が取れず、心配な日々が続いていました。後に、あの時は入院されていたと知り、驚きました。
差し支えなければ、発症当時の記憶や入院生活、そしてその後のリハビリについてお話しいただけますでしょうか。
忘れもしない、2023年5月19日のことです。その日、広島ではG7サミットが開催され、街は閑散としていました。私もお店を休みにして、自宅でのんびり過ごしていました。
午後2時、うたた寝から目が覚めると、右半身がしびれて動けません。「寝違えたかな?」と思ったものの、足までしびれていることに気づきました。以前、脳卒中を経験した友人から話を聞いていたため、「まさか…!」と思い、近くにあったスマホで急いで救急車を呼びました。
電話をかけると、呂律が回らないことにも気がつきました。「これは本当にやばいやつかも。死ぬかもしれない」と恐怖が押し寄せたのを覚えています。10分ほどで救急隊が到着し、サミットで交通も整備されていたおかげで、病院までスムーズに向かうことができました。
午後2時30分、病院に到着。しかし、着いた頃には症状は消えていました。「一過性脳虚血発作」だろうといわれ、念のため脳卒中センターに入院することになりました。
その夜、午後8時過ぎに妻にLINEをしようとスマホを操作していたところ、急に指が動かなくなり、脳梗塞を発症。慌ててナースコールを押し、すぐにMRIを撮ることに。そして、血栓を溶かす薬が点滴で投与されました。点滴はすぐに終わり、医師から「これ以上、梗塞範囲が広がることはないでしょう。ただ、今後の症状についてはまだ分かりません」と告げられ、その日は眠りにつきました。
翌朝、病室にきた医師に「先生、手も足も動かないよ」と伝え、「命は大丈夫なのでしょうか?」と尋ねました。そのとき私は、右半身が動かないとうことよりも死への恐怖が勝っていたのです。「命に別状はない」と聞いて、胸をなでろしました。
医師は「手足はリハビリをすれば回復することがあるから、あとは頑張ってくださいね」と私を励ましてくれました。
突然のことで本当に驚かれたことと思います。友人のことを思い出し、すぐに救急車を呼べたことも素晴らしです。
その後の入院生活はいかがでしたか。リハビリもすぐに開始となったのでしょうか。
入院生活では、看護師さんのホスピタリティに大変感動しました。嫌な顔ひとつせず支えてくれて、本当にありがたかったです。脳梗塞を起こした場所が「ややこしいところ」だったらしく、数日間は安静に過ごし、リハビリが始まったのは発症から5日後くらいでした。
最初にきてくれたのは作業療法士(OT)さんでした。動かない手足に電気刺激を与えるところからリハビリが始まります。リハビリについては何も知らなかったので、ただお任せするばかりでしたが、そのOTさんが「玉澤さんは、多分歩けるようになると思いますよ。頑張りましょう」と励ましてくれて、「そうなのか、なら頑張ってみよう」と前向きな気持ちになれました。
リハビリが進むと、電気刺激をしながら少しずつ物を掴めるようになり、それを見て「動くようになるかもしれない」と希望が湧いてきました。最初は20回1セットだった筋トレも、50回、100回と次第に回数が増えていきましたが、その厳しい指導がかえって励みになりました。
「リハビリによる回復はだいたい1年が目安で、それ以降は進度がゆっくりになる。でも、最近の学会報告では、2年以上経っても回復する例があるから、続けることが大切ですよ」と教えてもらい、さらにやる気が増しました。
その後、理学療法(PT)も加わり、担当の方から「玉澤さん、100回はやらなきゃだめですよ」と声をかけてもらって、心に火がつきました。最初は病棟でリハビリをしていましたが、すぐにリハビリ室で本格的に取り組むようになりました。
入院から2週間経たないうちに、リハビリを専門に行う回復期病院への転院が決まりました。
明確な目標を描いて
良いセラピストさんたちと出会い、しっかりとリハビリに取り組まれていたのですね。素晴らしいと感じました。
回復期病院に転院されてからは、いかがでしたか?
5月末に回復期病院に転院し、そこから9月末までの約4ヶ月間、じっくりとリハビリに励む日々が始まりました。
転院初日、主治医の先生が私のもとに来て、「体は100%元には戻りませんが、それに近づけることはできます」とお話しされました。ハッキリと伝えてくれたので、気持ちよかったです。そのうえで、「玉澤さんはどこまで目指したいですか?」と優しく問いかけてくれました。
私は迷わず、「お店に復帰したいこと」と「車の運転を再開したいこと」を伝えました。先生からは「なかなかハードルが高いですね。かなりの努力が必要ですよ」と言われましたが、目標をはっきりと口にしたことで「よし、やるぞ!」とやる気が湧いてきました。
お店の再開は12月か1月には実現したいと考えていたので、逆算して11月には店に戻り、体を慣らす時間が必要だと考え、退院の目標を9月末に定めました。
「ここまでにこうなっていたい」という状態の明確さと、目標があることの強さを実感しました。
理学療法(PT)、作業療法(OT)、言語聴覚療法(ST )は、それぞれどのようなことに取り組まれましたか?
PTでは、まず太ももまである長い装具(長下肢装具)をつけて、平行棒で立ったり歩いたりする練習を行いました。装具はすぐに短いものへと変わり、杖を使った練習に切り替わりました。
回復期病院のリハビリで一番つらかったのは、この「歩く」という練習です。「踵からついて、体重移動させる」という歩行のメカニズムをこれまで意識したこともなかったので、すごく苦痛でした。正しい歩き方でないと体に負担がかかるし、仕事に戻るためには長時間立ち続ける体力も必要なので、とにかく歩く練習には全力を注ぎました。
OTでは、麻痺した側の肘の曲げ伸ばしや、お手玉を掴んで運ぶなど、調理に近い動作の練習を行いました。また、指を曲げたり摘んだりする練習もしました。当初はまったく動かなかった手も、今では握力が5kgほどまで回復しています。
調理のリハビリも早く始めたかったため、7月からお願いしてスタートしました。2週間に1度ほど調理リハビリの時間をいただき、トマトソースやボロネーゼを作ったり、1時間で2品を作ったりする練習をして、復職に向けての準備を整えました。
ただ、転院して2ヵ月ほど経った頃、麻痺のある右肩に激しい痛みが出て、夜も眠れなくなりました。脱臼や骨に異常はなかったのですが、痛み止めを飲みながらなんとかコントロールしていた状況だったので、上肢のリハビリはほとんどできなくなりました。
ST(言語聴覚療法)については、麻痺はあるものの大きな問題はなかったので、最初の2ヵ月間だけ発話のリハビリを受けました。その時間は、いろいろと話を聞いてもらえる貴重な場にもなり、ストレス解消にもなっていたように思います。
信念を持って前に進む
前向きにリハビリに取り組まれていた玉澤さんですが、お店のことも気にかかる中で、悩んだり精神的に辛くなったりしたことはありませんでしたか?
私はやるべきこと、つまり「目標」がはっきりしていたので、悩むことはありませんでした。最初は「死ぬかもしれない」という恐怖はありましたが、命に別状はないと分かった瞬間、「ラッキー!」とさえ思えました。
そこからは悩む時間がもったいないと感じ、ただ目標に向かって進むだけだと決めて、ひたすら歩み続けました。お釈迦様も「悩んでも解決しないことは悩むな」と言っているように、悩んで悩んで手足が動くならいいのですが、そうはいきませんからね。
片麻痺になってから3ヵ月ほど経ったある日、OTのリハビリ中にふと、「自分ってすごく得をしているかも」と思いました。
60歳までずっと健常者として過ごし、今後は障害者として生きる。これは「新しい人生を経験できるんだ!」と気づいた瞬間でもありました。健常者としての人生に加え、障害者としての視点も持てるのだから、人生を2倍楽しめるではないか、と思えたのです。
「障害は不便である。しかし不幸ではない」というヘレン・ケラーの言葉がありますが、まさにその通りだと感じます。
「人生を2倍楽しめるではないか」という玉澤さんのとても前向きな言葉が胸に響きました。障害はあるけれど、決して不幸ではない。そう思うことで、前向きでい続けられるのですね。
目標に向かって歩まれていた玉澤さんですが、当時、リハビリを続けるうえで励みになっていたことはありますか? また、大切にしていたことがあれば教えて下さい。
リハビリはやったらやった分だけ成果がでるので、それが励みになっていました。たとえば、歩けなかったのが歩けるようになったし、最初は難しいと思っていた調理も「やればできるじゃん!」と感じられるようになりました。まずはやってみること、挑戦することが大事だと改めて感じました。
あとは、応援ですかね。「お店を再開したい」という思いの背景には、お客さんからの温かい声援がありました。また、院内でひとりで歩行練習しているときに「歩くの速くなりましたね」と声をかけてもらえると、やっぱり嬉しかったです。
私はもともと、一度決めたことはやり抜く性格です。料理人としても「鍋だけはきれいにする」ということをずっと大切にしてきました。同じように、入院中は「お店再開に向けて体力をつけるために、歩くことを頑張る」と決めて、リハビリのない時間は歩き続けていました。決めたことは貫き通す。それが大切にしていることです。
また、「現状を受け入れる」ということも大切です。受け入れるからこそ、次に進むことがでるし、選択肢も増やすことができます。
これからの挑戦
現在はお店を再開されている玉澤さんですが、退院後のお話を伺ってもよろしいでしょうか。
退院直前に運転のリハビリも実施し、予定通り9月末に退院しました。
病院で歩く練習をしていたものの、最初は体力がまったく足りず、家で動くだけでもすぐに疲れてしまいました。調理のリハビリを通じて1時間は立てることが分かっていましたが、お店に復帰するにはさらに多くの体力が必要です。そこで、退院後は毎日2km歩くことを決め、続けました。
これは、先程お話した脳卒中を経験した友人・山川さんのアドバイスでした。山川さんは新卒で就職した飲食店の同期で、入院中から頻繁にメッセージのやり取りをしていました。彼は今、長野で農家をしていますが、その行動力と前向きな姿勢を私は本当に尊敬しています。
10月と11月の2ヵ月は、外来のリハビリに通いました。少しでも手が良くなるようにとOT2時間、PT1時間、計3時間のリハビリを週3回のペースで2ヵ月間続けました。その傍ら、お店にも足を運び、仕込みの練習を行いました。
そして、当初の予定通り12月にお店を再開。最初は常連さんだけに来ていただきましたが、問題なくできそうだったので、1月からは曜日限定で営業を再開しました。
有言実行で、予定通りお店を再開されたのですね! 発症から約半年での復帰、本当にすごいことだと思います。私も何度か食べに伺いましたが、変わらぬ美味しさに感動しました。
玉澤さんがこれからさらに挑戦したいことがあれば、ぜひお聞かせてください。
お店は今年で開店10周年を迎えます。現在は体力を考慮して週4日ほどの営業にとどめていますが、今後の目標としては、週6日の営業を安定して続けられるようにしたいです。今年の5月に試しに週6営業をしてみたのですが、帰る頃には転びそうなくらい疲れてしまいました。
また、仕込みに時間がかかるため今はコース料理のみの提供にしていますが、いずれはアラカルトメニューも復活させたいです。いつになるか分かりませんが、これからも挑戦を続けていこうと思っています。
私自身、障害者となって不便や不自由さを感じることは多いですが、それが解消されたら、もっと多くの人にとって生きやすい社会になるのだろうなと感じています。ユニバーサルデザインやバリアフリーも少しずつ進んでいるとはいえ、まだまだ発信していく必要があります。
障害当事者たちがもっと外に出て、社会とつながり、声を届けることが重要だと思っています。こうした活動を、一歩ずつ地道に続けていかなければなりません。
私が生きている間に社会が劇的に変わらなくても、その思いはきっと未来に届くはず。障害者にとって心地よい街は、健常者にとっても快適な街だと信じています。私はこれからも行動をつづけていきます。
玉澤さんからのメッセージ
さらなる目標に向かって歩み続ける姿勢と、社会を変えようとする力強さに大変勇気づけられました。私も一緒になって発信していくことで、少しでもお力になれればと思います。
最後に、同じようにリハビリに励んでいる方々に向けて、なにかメッセージがあればお願いします。
「鮮やかにイメージし、熱烈に想えば、叶わないことはない」
これは、私が22歳で入社した会社の教育訓練部長が言っていた言葉です。当時は少し照れくさくて、「何を言ってるんだろう?」と思っていましたが、私はいまこの言葉に支えられています。
自分自身が「機能を回復したい」「日常生活を不自由があっても楽しく過ごしたい」など、熱烈に願い続ければ、それはきっと叶うはずです。本気で願っているなら、それが行動につながり、「やればできる」と信じられると思うのです。
もし悩むことがあれば、相談だけでも構いませんので、ぜひ気軽に私のお店にいらしてください。少しでも励みを届けられたら嬉しいです。
玉澤さん、心に響く素敵なメッセージをありがとうございました。
「鮮やかにイメージし、熱烈に想えば、叶わないことはない」という言葉を、玉澤さんが体現されているようですね。しっかりと目指す状態をイメージし、目標を立て、強く願い行動しつづければ、不可能が可能に変わることもきっとある。そんなメッセージを受け取りました。
また、最後の温かな一言からも、玉澤さんの優しさが伝わってきました。これからも、玉澤さんのさらなるご活躍を心から応援してます。
玉澤さん、本日は貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。
◆ 店舗情報
店名:di Grotto TAMAZAWA(ディ グロット タマザワ)
住所:〒732-0821 広島県広島市南区大須賀町12−11
電話:082-258-1882
アクセス:広島駅南口から徒歩約5分
営業:予約のみ/不定休(営業している日は予約なしでも入店可)
・18:00〜 ディナー/コース料理
・20:00以降はバータイム/アラカルト対応
撮影:Takaya Yamamoto
以上、今回は広島県広島市にあるイタリア料理店「di Grotto TAMAZAWA(ディ グロット タマザワ)」のシェフである玉澤良樹さんをご紹介させていただきました。
ひとりでも多くの方に、玉澤さんの素敵な想いと魅力がお届けできれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!
かわむーでした。
この取材は、ご本人から同意を得て行なっています。本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒宜しくお願い申し上げます。
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