みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!
今回は、京都府京丹後市を拠点に活動する、言語聴覚士の笠井幸子さんにお話を伺いました。
笠井さんは、難病のシャルコー・マリー・トゥース病とともに歩みながら、病院や介護現場で言語聴覚士として活躍されてきました。現在は、ご夫婦で営む地域の食堂を拠点に、やわらかメニューの提供や、「インクルーシブクッキング」という新たな挑戦に取り組み、障害の有無を問わず、誰もが食を楽しめる社会を目指して活動されています。
この記事では、ご自身の経験や専門性を活かしながら、食の可能性を新たなかたちで広げている笠井さんの取り組みと、そこに込められた想いをご紹介します。
笠井幸子さんの歩み

◆ 笠井幸子(かさい・ゆきこ)さん
1980年、京都府京丹後市生まれ。生後まもなく脳性まひと診断され、15歳までこども療育センターで暮らす。その後、33歳のときにシャルコー・マリー・トゥース病と診断。26歳で言語聴覚士免許を取得し、病院やデイサービスで勤務したのち、2022年に「Seat Table」として開業。夫婦で営む、かさい食堂でのやわらかメニューの提供や、どんな方でも楽しめる料理教室「インクルーシブクッキング」の活動を通して、誰もが食を楽しめる社会を目指している。

現在は、言語聴覚士(ST)としてのご経験に加え、ご自身のご病気と向き合ってきた視点も活かしながらご活躍中の笠井さんですが、これまでどのような日々を歩んでこられたのでしょうか。
よろしければ、幼い頃のことから、お話を聞かせいただけますか?

2歳頃だったと思います。つかまり立ちはできていたものの、なかなか一人で歩けなかった私を心配した母が、京都・舞鶴にある「こども療育センター」に連れて行ってくれました。そこで、脳性まひと診断され、中学3年生まで療育センターで暮らすことになります。
診断を受けて以来、「自分は、脳性まひなんだ」と思って過ごしてきましたが、中学2年生のとき、ある小児科の先生に「これは脳性まひではないかもしれない。きちんと検査してもらったほうがいい」と言われたんです。
何度か検査入院を重ねた結果、「末梢神経の障害で、遺伝性の可能性がある」ことまで分かりましたが、そのときは病名までには至りませんでした。
その後、「遺伝性」という言葉がずっと気になっていて、結婚を機に自分の体と向き合おうと、あらためて検査を受けたんです。そして、33歳のときに、シャルコー・マリー・トゥース病という診断がつきました。
シャルコー・マリー・トゥース病とは
末梢神経の障害によって、手足の先に筋力低下や感覚の低下が現れる遺伝性の疾患の総称。多くの方は、足の筋力低下によりスリッパが脱げやすくなったり、段差につまずきやすくなったりすることで気づく。また、足の変形(凹足)や、膝を高く上げるような特徴的な歩き方(鶏歩)も見られる。参考:難病情報センター.「シャルコー・マリー・トゥース病(指定難病10)」.公益財団法人 難病医学研究財団 .(参照・一部改編 2025-07-10)

診断にたどり着くまでには、長い年月の積み重ねがあったのですね。
幼い頃から療育センターで過ごされていたとのことですが、その当時の暮らしについても、お聞かせいただけますでしょうか。

療育センターでは、併設されていた養護学校(いまの支援学校)に通いながら、毎日リハビリに取り組んでいました。親元を離れての入所生活ではありましたが、週末や夏休みには家に帰ることもできていました。
リハビリは、理学療法(PT)と作業療法(OT)を受けていました。
ふらつきが強く、歩くときにバランスをとるのが難しかったため、PTでは足におもりをつけて歩行練習をしていたのを覚えています。療育センターを退所する頃には、杖を使って歩けるようになっていました。
OTの先生には、勉強を教えてもらったり、一緒に手作業をしたりと、さまざまな場面で丁寧に関わっていただきました。当時はまだ子どもだったこともあり、リハビリに前向きになれない時期もありましたが、それでもあたたかく関わってくださった先生の姿が、心に残っています。
療育センターを退所したあとは実家に戻り、地元の普通科の女子校へ進学しました。

言語聴覚士の道へ

STの道を選ばれた背景には、どのようなきっかけや想いがあったのでしょうか。

STを目指すきっかけになったのは、療育センターでの記憶と、もともと関心のあった「声の仕事」への想いでした。
療育センターには、ことばのリハビリをする先生がいらっしゃいました。当時はまだ「言語聴覚士」という国家資格はなかったのですが、子どもながらに「こんなお仕事なんだろうな」と、なんとなく理解はしていたように思います。
その後、短大に通っていた頃に「声の仕事がしたい」という思いが強くなり、アナウンススクールの通信講座で1年間学びました。
ちょうどその頃、ご縁があって病院の事務のアルバイトを始め、医療の現場で働きながらアナウンスの勉強を続けていたんです。
そんな中で出会ったのが「言語聴覚士」という仕事でした。
声にまつわる世界と、これまで自分を支えてくれた医療の現場。そのふたつが自然に重なって、「この仕事なら、私にもできるかもしれない」と心が動きました。
国家資格でもあり、生きる道としてきちんと向き合えるかもしれないと考え、23歳のときにSTの養成校への進学を決めました。

幼少期の記憶や、「声にかかわる仕事をしたい」という想いを大切にしながら、ご自身の歩みを一つひとつ丁寧に重ねてこられたのですね。
養成校で学ばれたあとは、どのようなかたちで臨床の現場に進まれたのでしょうか。免許を取得されたあとの歩みについても、ぜひお聞かせください。

3年間の学びを経て、26歳でSTの資格を取得し、病院に就職しました。ちょうど回復期病棟の立ち上げが始まった時期で、STの部門づくりにも携わりながら、成人の嚥下障害や高次脳機能障害のリハビリを担当しました。
病院でのリハビリはやりがいはあったものの、次第に「その人の生活や大切にしていることにも目を向けたい」と思うようになりました。そんなときに出会ったのが、「生活行為にまさるリハビリはなし!」という言葉を掲げているデイサービスです。
もともと生活期のリハビリには興味をもっていたのですが、身体的に難しいのではないかと感じていました。それでも、この言葉に背中を押されて、思い切って代表の方に会いに行ったんです。ありがたいことにご縁がつながり、働かせていただけることになりました。
通勤には車が必要だったため、福祉車両に対応した教習所に通い、運転免許を取得。28歳のときに、そのデイサービスへ転職しました。




念願だった生活期のリハビリテーションに関わるようになってからの毎日は、きっと新たな気づきや出会いの連続だったのではないかと思います。
そのときの、特に印象に残っている出来事やエピソードがあれば、お聞かせいただけるとうれしいです。

デイサービスでの仕事は、まさに「天職」と感じられるものでした。生活そのものがリハビリという考え方が根づいていて、利用者さんとの関わりも本当に楽しく、毎日が学びの連続でした。
なかでも印象に残っているのは、構音障害と嚥下障害のある方が、「娘の結納で『以後、末永くよろしくお願いします』と言いたい」と話してくださったときのことです。その想いに、まわりの利用者さんたちも「一緒に練習しよう!」と声をかけてくださり、みんなでことばの練習に取り組む、あたたかな輪が生まれていきました。
本番当日に「ちゃんと伝えることができた」と喜びのご報告をいただき、私にとっても忘れられない出来事になりました。まさに「これがリハビリテーションだ」と心から思えた瞬間でした。
その後、約6年間勤めたデイサービスを離れ、ご縁があって、「シャルコー・マリー・トゥース病」の診断をくださった先生がいる病院で、ST部門の立ち上げに関わることになりました。
骨折とリハビリ生活

STとして、医療や介護などさまざまな現場でご経験を重ねてこられた笠井さんですが、2020年には、転倒による骨折という大きな出来事があったとうかがいました。
受傷当時のことや、そこから始まったリハビリの日々について、もしよろしければ教えていただけますか。

2020年3月、転職先の病院で勤務していたときのことです。いつものように朝出勤し、ST室へ向かう途中の廊下で、ふとバランスを崩して転倒してしまいました。
これまでも転ぶことはあったのですが、その日はうまく体勢を立て直すことができず、「ポキッ」という音とともに、動けなくなってしまったんです。たまたま通りかかった職場の方がすぐに駆けつけてくれ、ストレッチャーで救急へ運ばれました。
診断は、大腿骨骨幹部骨折。粉砕骨折に近い状態だったそうです。そのまま緊急入院となり、プレートでの固定術を受けた後、リハビリを目的に、最初に勤めていた病院の回復期病棟へ転院しました。
ところが、骨の付きが思わしくなく、5月に髄内釘を入れるための再手術を受けることに。その後もリハビリを続けながら、10月に退院することができました。入院期間は、およそ7か月半におよびました。


当時のリハビリの目標は、「言語聴覚士として仕事に復帰すること」でした。
実習に来ていた学生さんにも手伝ってもらいながら、食事介助の練習からスタート。立てるようになってからは、ベッド周囲の移動や車椅子での動き方など、実際の仕事を想定した動きを一つひとつ確認していきました。通勤には車が必要だったため、自家用車を病院に持ち込み、車いすから運転席への移乗も繰り返し練習しました。
最後まで苦戦したのは「お風呂」です。浴槽をまたぐ動作が難しく、自宅の浴室にも課題が多かったため、退院前に家屋調査を実施。手すりの位置やシャワーチェアの導入など、細やかな調整を重ねながら、暮らしの準備を整えていきました。

長期の入院や再手術を経て、リハビリを積み重ねながら少しずつ日常を取り戻していかれたのですね。目標に向かって前に進みながらも、きっとさまざまな思いがあったのではないかと思います。
リハビリに取り組む中で、特につらかったことや大変だったことはありましたか? また、それをどのように乗り越えてこられたのか、励みになっていたことがあれば教えてください。

正直、もともと歩きにくさや転びやすさはあったので、「歩けなくなっても仕方ない」と、骨折自体にそれほど大きなショックはありませんでした。
でも、家業である食堂の仕事が手伝えなくなったことは、本当に悲しかったです。これまでは、厨房に入って立って洗い物をしたり、準備を手伝ったりするのが日課だったので、それができなくなることが、想像以上にこたえました。
そんな私の気持ちに寄り添って、担当のOTさんが、高さ調整ができてブレーキもついたキャスター付きの椅子を探してきてくれたんです。病院のADL室で、その椅子を使って調理の練習もさせてもらいました。
結局、食堂のスペースには合わず使えなかったのですが、「少しでも力になりたい」と動いてくださったお気持ちが、何よりうれしかったです。いまでも、そのときのことは心に残っています。
そして、いちばんの支えになったのは、やはり主人の存在でした。手術を受けたのは2020年5月で、ちょうどコロナ禍の真っただ中。入院の翌日から面会が全面的に禁止され、とても心細い日々が続きました。
その後、面会制限が少しずつ緩和されて、短い時間でも会えるようになったとき、顔を見て言葉を交わせるだけで心がほっとしたのを覚えています。「待っていてくれる人がいる」ことのありがたさを、深く実感した瞬間でした。


実際に「かさい食堂」におじゃまし、料理教室の様子を取材させていただいた際も、そっと寄り添いながらサポートされる旦那さまのお姿がとても印象的でした。
おふたりの穏やかな関係性が伝わってきて、本当に素敵なご夫婦だなあと感じました。

食を通じた新たな支援

笠井さんは、2022年に「Seat Table」という屋号でご自身の活動をスタートされたと伺いました。現在の取り組みについて、ぜひ詳しくお聞かせいただけますか。

起業のきっかけは、「食べることを支えたい」という想いと、自分の体と向き合った結果でした。
復職後、病院での勤務は体力的に大きな負担となり、「もっとこうしてあげられたら」と思っても、思うように動けず悔しさを抱えることもありました。「自分らしい方法で、もっと人の力になれないか」と考え、たどり着いたのが起業という道です。
2022年5月、「Seat Table(シートテーブル)」を立ち上げ活動を開始。屋号には、「話す(Speech)」と「食べる(Eat)」を支えるSTの役割、そして「食卓(Table)」で人と人がつながるという意味を込めています。
現在は「かさい食堂」の女将として、噛みやすく飲み込みやすい「やわらかメニュー」の提供や、どんな方でも楽しめる料理教室「インクルーシブクッキング」を開き、食を通じた支援を続けています。
食堂での「やわらかメニュー」提供


かさい食堂では、噛む力や飲み込む力が弱くなった方でも安心して食べられる「やわらかメニュー」を提供しています。加齢やご病気などにより、通常の食事が食べにくくなった方にも、美味しい時間を楽しんでいただきたいという想いから始めました。
メニューは、お弁当や会席料理のほか、巻き寿司、ばら寿司、握り寿司、うなぎ丼、カツ丼など、バリエーションも豊富です。やわらかさは3段階に調整しており、「歯ぐきでつぶせる」「舌でつぶせる」「噛まなくてもよい」食感に仕上げています。
調理は、夫に協力してもらいながら、私が下ごしらえを担当。おかゆを炊いて酢を合わせ、ゲル化剤で固めるなど、盛りつけ以外の工程を中心に取り組んでいます。
夫婦で力を合わせて、ひとつひとつ丁寧に作っています。






実際に、郷土料理のばら寿司と鰻の握り寿司をいただきましたが、どちらも驚くほど食べやすく、本当に美味しかったです。「食べる楽しみ」をあきらめずにいられる選択肢が、地域にこうして根づいていることに、心から感動しました。
やわらかメニューの調理には、食材を柔らかく仕上げる調理家電「デリソフター」も大活躍しているそうです。記事の下部にリンクを貼っていますので、興味のある方はチェックしてみてください。

インクルーシブクッキングの伝道師


インクルーシブクッキングは、2023年夏に「溶けないアイスクリームづくり」からスタートしました。嚥下が難しい方でも食べやすい工夫を、みんなで楽しく体験できる料理教室です。
かさい食堂で開催するほか、ご依頼を受けて各地への出張も行っています。
これまでにとんかつ、ステーキ、桜餅、ポタージュなど、食べにくいとされる20品目以上の料理に挑戦してきました。どのメニューも、あえて特別な材料は使わず、誰でも気軽に再現できることを大切にしています。
この活動を通して伝えたいのは、嚥下食の知識や調理技術だけではありません。実際に手を動かす体験を通じて、障害への理解や、誰にとってもやさしいまちのあり方を考えるきっかけにもなればと考えています。
参加者の方から聞こえてくる「こんなふうにすれば食べられるんだ!」という声が、何よりの励みになっています。





実際に私も試食させていただいたのですが、一口食べてびっくり。「嚥下食のデザートって、こんなに美味しいんだ!」と、感動と驚きで心まで満たされました。
現在、関西を中心にインクルーシブクッキングを開催され、ひっぱりだこの笠井さんですが、これまで活動を続けてきたなかで大変だったことはありますか? また、活動のこだわりについてもお聞かせいただけるとうれしいです。

いちばん大変なことは、やっぱり「ひとりではできない」ということです。
出張のときは、道具や材料もたくさんあるので、全部自分で準備して運ぶのはなかなか大変です。本当は、もっとたくさんの場所で開催したい気持ちがあるのですが、どうしても広がりはゆっくりになってしまいます。
インクルーシブクッキングのこだわりは、「誰でも参加できる場であること」です。
専門職だけで完結するのではなく、障害のある方や地域の方など、いろんな人たちが一緒に関われる時間にしたいと考えています。というのも、私自身が車いすで調理を学ぼうとしたとき、「危ないから」と断られた経験があるんです。「私は料理しちゃいけないんだ」と、扉を閉ざされたような気持ちになりました。
だからこそ、同じように「やらなくていいよ」と言われがちな障害のある方にも、「できることはたくさんあるよ」と伝えたくて。当事者の方にも、ぜひ気軽に参加していただきたいと思っています。


料理という作業を通じて、ただ「楽しいね」と笑い合う時間の中に、相手を思いやる気持ちや、違いを受け入れる感性がそっと育まれており、本当に素晴らしいなと感じました。障害のある人もない人も関係なく、自然と心が通い合う。そんなあたたかな時間が、ここには流れていたように思います。
笠井さんが、これからさらにチャレンジしていきたいことがあれば、ぜひ教えてください。

嚥下食は、決して「誰かのためだけの特別な食事」ではありません。誰もが「美味しいね」と感じられて、同じものを囲んで会話が生まれる。そんな体験が、もっと当たり前に、日常に広がっていってほしいと心から思っています。
そのため、今後は出張クッキングで全国各地に出向きたいと思っています。地域の人たちが最後まで「美味しい」と感じて自分の好きなものを食べて最後まで生ききる、そんな地域社会の実現を目指しています。
たとえば、私の住む地域に根づく「ばら寿司」のように、子どもの頃から親しんだ味を、たとえ嚥下障害があっても、最期まで楽しめる社会になってほしいと願っています。
もし、食べることが難しくなったおばあちゃんが、最期まで「美味しいね」と笑って食べている姿を、孫が見ていたら。きっとその光景は、やさしい記憶として受け継がれていくと思うんです。
また、インクルーシブクッキングなどの活動を通じて得た経験を、講演というかたちでも届けていけたらと思っています。
私は料理のプロではありませんが、言語聴覚士として「食べたい気持ち」に寄り添ってきました。クッキングはあくまでも手段で、大切なのはその先にある気づきや、共に笑い合える関係性です。
この活動が、かかわる人の視点を少しでも変えるきっかけになれば嬉しいです。

リハビリに励む方へメッセージ

最後に、リハビリに励む当事者の方に向けて、メッセージがあればお願いします。

私はどんな人にもきっと、道はあると信じています。みなさんの中に「こうしたい」という想いがあるなら、その可能性を信じてどうか突き進んでほしいと思います。
感謝の気持ちを忘れずに、人とのつながりを大切にしていくこと。それが、どんな状況にあっても前に進む力になると信じています。
人生って、本当に何が起こるかわかりませんよね。でも、どうかあきらめずに、信じた道を歩んでほしい。あなたの可能性は、きっとまだまだ、広がっていくはずです。

笠井さん、心に沁みる、あたたかく力強いメッセージをありがとうございました。
感謝を忘れず、自分を磨き続ける笠井さんの姿に、背中を押された方も多いのではないでしょうか。
「たとえ嚥下障害があっても、子どもの頃から親しんだ味を、最期まで楽しめる社会にしたい」というメッセージが、個人的にとても印象的でした。そんな社会の実現を目指して、リハノワはこれからも、笠井さん挑戦を心から応援しています。
本日は、貴重なお話を本当にありがとうございました。



以上、今回は京都府京丹後市を拠点に活動する言語聴覚士・笠井幸子さんをご紹介しました。
ひとりでも多くの方に、笠井さんの素敵な想いと魅力がお届けできれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!
かわむーでした。

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