【当事者の声】脊髄損傷後のリハビリを乗り越えて辿り着いた場所。オムロン太陽で働くということ|松枝幸大さん

みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!

今回は、大分県別府市にあるオムロン株式会社の特例子会社「オムロン太陽株式会社」で働く、松枝幸大さんにお話を伺いました。

17歳のとき、交通事故によって第1腰椎を損傷し、車椅子での生活がはじまった松枝さん。突然の出来事に戸惑いながらも、リハビリに向き合い、少しずつ未来を切り拓いていった歩みには、たくさんの前向きな挑戦がありました。

この記事では、事故当時の心の葛藤やリハビリの日々、社会への一歩を踏み出すまでのプロセス、そして現在働くオムロン太陽でのやりがいや、これからの展望についてご紹介します。

松枝幸大さんの歩み

松枝 幸大(まつえだ・ゆきひろ)さん
1980年生まれ、千葉県出身。中学時代に宮崎へ移住。17歳のときに交通事故で第1腰椎を損傷し、車椅子での生活がはじまる。約半年間のリハビリ入院を経て、国立別府重度障害者センターへ転所し、自動車運転などのリハビリに取り組む。退院後は宮崎で運転免許を取得し、埼玉県所沢市にある国立職業リハビリセンターへ入所。就業に向けた準備を重ねたのち、宮崎へ戻り、地元企業や市役所で働く。25歳のとき、オムロン太陽株式会社に入社。現在は、ダイバーシティ&インクルージョン推進グループの主査として、多様な人が働きやすい職場づくりや情報発信に力を注いでいる。


かわむー
かわむー

現在は、オムロン太陽のダイバーシティ&インクルージョン(D&I)推進グループでご活躍中の松枝さんですが、大きな事故により車椅子での生活がはじまったのは、17歳のことだったのですね。

受傷当時の記憶や入院生活、その後のリハビリについてなど、覚えている範囲でお聞かせいただいてもよろしいでしょうか。


松枝さん
松枝さん

17歳になったばかりの5月、バイクでの移動中に車と接触する事故に遭いました。幸い意識ははっきりしていましたが、身体を起こそうとするも、どうしても起こせません。

たまたま通りかかったトラックの運転手さんが私の異変に気づいてくださり、道路の真ん中から安全な場所へと移してくれました。

駆け寄ってきた相手の方には、「よく分からないけど立てないので、救急車を呼んでください」と自分でお願いしたのを覚えています。

搬送先の病院では、脊髄損傷(不全)と診断されました。第1腰椎が完全に潰れてしまっていた影響で腫れもひどく、すぐに手術ができる状態ではありませんでした。そのため、まずは1週間ほど牽引したままベッド上で安静に過ごし、その後、潰れた骨を上下の骨で支えるように、ボルトで固定する手術を受けました。

リハビリが始まったのは、それからさらに1ヵ月ほど経ってからでした。というのも、手術後から続いていた高熱の原因を調べていくなかで、「髄膜炎」を起こしていることが判明したんです。しばらくは頭痛もひどく、つらい日々が続きました。


脊損後のリハビリテーション

かわむー
かわむー

突然の事故に加えて、術後の髄膜炎も重なってしまったのですね。まだ17歳という若さで、先の見えないつらい日々を過ごされた当時の松枝さんのお気持ちを思うと、胸が締め付けられます。

しばらくはベッド上で過ごされていたとのことですが、初めて身体を起こされたときのことや、そこからどのようにリハビリが進んでいったのか、お聞かせいただいてもよろしいですか?


松枝さん
松枝さん

髄膜炎がようやく落ち着き、事故後はじめて身体を起こしたときのことは、今でもはっきりと覚えています。

看護師さんたちに支えてもらいながら、なんとか車椅子に座ることができたものの、自分の足で踏ん張れない恐怖は想像以上でした。足の感覚がないためバランスがうまくとれず、ふわふわと浮いているような感覚でした。

車椅子のアームレストをぎゅっと握りしめながら、親に押してもらって移動したあの時間は、いまも心に残っています。

その後、リハビリに本格的に専念するために、リハビリ専門の病院へ転院しました。ここでは約半年間、理学療法(Physical Therapy:PT)と作業療法(Occupational Therapy:OT)に取り組みました。

PTでは、関節が固まらないようにストレッチをしたり、腕の筋力をつけたりするトレーニングを行いました。当時は杖を使えば少しは立って歩ける状態だったので、膝が折れ曲がらないようにロックした状態で歩く練習にも励みました。

OTでは、腕や手の筋力トレーニングのほか、事故か手術の影響で右腕にしびれや麻痺があったため、少しでも機能を取り戻せるようリハビリに取り組みました。


かわむー
かわむー

入院中のリハビリ生活を振り返ってみて、当時、松枝さんが掲げていた目標や、どんなお気持ちでリハビリテーションに取り組んでいらっしゃったのか、教えていただけるとうれしいです。


松枝さん
松枝さん

正直なところ、リハビリを始めた当初は、自分がこの先どうなっていくのかまったく想像がつきませんでした。それでも、とにかく「自分のことは自分でできるようにならなきゃ」という気持ちは強かったように思います。

友だちと出かけても、すぐに疲れてしまい、車椅子を押してもらうことがよくありました。助けてもらえるのはありがたかった反面、どこか申し訳なさを感じていました。だからこそ、「ひとに迷惑をかけないように、自分である程度動けるようになる」というのが、当時の一番の目標でした。

リハビリ病院での生活を振り返ると、周りの友だちが当たり前のように学校へ通い、遊んでいる中で、自分だけが病院にいる。その現実に強い孤独を感じていました。「なぜ自分だけが、こんな目に遭わなければならないのか」と思うこともありましたし、「この先ずっと親に介護されながら生きていくのかもしれない」と、将来への不安に飲み込まれそうになる日もありました。

病院には同世代の人や同じような境遇の人がいなかったので、「もしかして、世界でも稀な人になっちゃったのかな」と感じることもありました。将来が見えないことへの不安は大きく、心のなかにはいつも、ぽっかりと穴があいているような感覚があったように思います。

生活の自立と就職を目指して

かわむー
かわむー

将来が見えないなかで、ひとり病院にいるという状況は、本当に苦しかったと思います。まわりに同じような境遇の人もいないなかで抱えていた不安や孤独の大きさが、言葉のひとつひとつから伝わってきました。

そうした状況のなかで、気持ちが少しずつ前を向いていったきっかけや、支えになった出来事があればぜひお聞かせください。


松枝さん
松枝さん

転機になったのは、病院のケースワーカーさんから「国立別府重度障害者センター(通称:重度センター)を紹介されたことでした。

もともと埼玉県所沢市にある「職業リハビリセンター」へ行くことを検討していましたが、「その前に、まずは生活の自立を目指したほうがいい」とアドバイスをいただき、病院から重度センターへ転院することになったのです。

重度センターでの生活は、それまでとはまったく違うものでした。初めて同じような境遇の車椅子ユーザーの方々と出会い、自然と気持ちが軽くなったのを覚えています。リハビリや生活のことを教えてもらいながら、自分自身も少しずつ自立に向けて動き出すことができました。

なかでも、気持ちがパッと明るくなったのは「車椅子でも自動車が運転できる」と知った瞬間です。宮崎のような車社会では、車があるかないかで生活の自由度が大きく変わります。「行動範囲が一気に広がる!」「車椅子生活もそんな真っ暗じゃないかも」と思えたのは、大きな一歩でした。

施設にはドライブシミュレーターがあり、運転の練習ができました。そのほかにも、じょくそう予防やトイレのリズム、車椅子の扱い方など、生活の基礎となる練習をたくさん受けることができました。

約1年半の重度センターでの生活を経て、自宅にスロープを設置したり、トイレを広くしたりと環境整備を行い、病院を出て、自宅へと戻りました。

その後、地元・宮崎で運転免許を取得したのち、次のステップである所沢の職業リハビリセンターへと進んでいきました。


かわむー
かわむー

同じような境遇の方との出会いや、自動車運転という新たな可能性との出会いが、松枝さんの世界をぐっと広げてくれたのですね。

そこから進まれた所沢での職業リハビリテーションは、どのようなものだったのでしょうか? その後の歩みについて、ぜひ教えてください。


松枝さん
松枝さん

職業リハビリセンターでは、脊髄損傷の仲間たちとともに4人部屋の寮で共同生活を送りながら、仕事に就くための準備を進めました。パソコン操作を学んだり、手に職をつけるための練習に取り組んだりと、実践的なプログラムが多くありました。

わたしは当初、建築系の仕事に興味をもっていたのですが、競争率が高く、資格がある人が優先されることもあり、「自分には難しいかもしれない」と方向転換。一般事務の道に進むことにしました。

一度は東京・青山にある医療機関から内定をいただいたのですが、住まいや駐車場の確保、障害者雇用の給与水準などを考えると現実的には厳しく、泣く泣く辞退することになりました。

その後、地元の宮崎に戻って仕事を探しましたが、当時はまだ障がい者雇用が定着しておらず、とりあえず入ったパソコンスクールのインストラクター補助の仕事も、環境が合わず、やむを得ず退職することになります。

市役所で契約社員として働いた時期もあり、「続ければ正職員も目指せるかもしれないね」と声をかけていただいたこともありましたが、実際にはいろいろな壁がありました。

そんな経験を重ねるなかで、「このままずっと実家で甘えるのではなく、将来は自分の力で暮らしていきたい」という思いが芽生えはじめました。これが、20代前半の頃です。


オムロン太陽での挑戦

かわむー
かわむー

松枝さんがオムロン太陽で働くことになったきっかけについて、ぜひお聞かせください。どのような経緯で現在の職場と出会い、どんなところに魅力を感じて、入社を決められたのでしょうか?


松枝さん
松枝さん

当時、車椅子バスケットボールをしていたのですが、そこでのご縁がきっかけになりました。

一緒にプレーしていたなかに、当時のオムロン太陽の社長がいらっしゃったんです。仕事について悩んでいることを打ち明けると、「うち、受けてみない?」と声をかけてくださいました。

実際にオムロン太陽を訪れたとき、「障がいのある人が、こんなにも当たり前のように働ける環境があるんだ!」と驚きました。当時はまだ障がい者雇用が定着しておらず、面接すら断られたり、ようやく働けたとしても、端っこの席で「とりあえずこれやっておいて」と雑務だけ任されるように感じたこともありました。

でも、オムロン太陽では、障がいのある人もない人も、ごく自然に、当たり前のように一緒に働いていました。確か、当時も社員の半分くらいが障がいのある方だったと思います。

社長も管理職の方も車椅子で、「障がいがあっても、こんなふうに活躍できるんだ」と思えたことが、本当にうれしかったですし、自分もここで頑張ってみたいと強く感じました。

大分には知り合いがいないので不安もありましたが、親元を離れて、自分の力で考え、行動してみたいという思いも大きくなっていきました。

「ここでやっていけたら、自信につながるはず」と思い、チャレンジを決意。2005年、25歳のときにオムロン太陽に入社しました。



松枝さん
松枝さん

住まいは、社会福祉法人「太陽の家」が社宅として月2万円で貸してくださり、最初の2年間はそこで暮らしました。住む場所も駐車場も整っていて、安心して新しい生活をスタートさせることができました。

入社してからの歩みでいうと、最初の15年間は製造部門で働いていました。その後、品質保証部門に異動し、いまはD&I推進グループで3年ほどになります。

振り返ってみると、それぞれの部署で多くの学びや出会いがありました。


仲間たちとの歩み

かわむー
かわむー

現在ご所属されてるD&I推進グループでは、どのようなお仕事を担当されているのでしょうか? そのなかで「やっていてよかったな」と感じる瞬間や、やりがいを感じる場面があれば、ぜひ教えてください。


松枝さん
松枝さん

D&I推進グループでは、工場見学に来られた方々や社会に向けて、障がいのある人の働き方や職場の工夫などを伝える発信活動を担当しています。障がい理解の促進や、障がい者雇用のあり方、活躍の機会をどう広げていくかといったテーマに、日々取り組んでいます。

現場の改善活動として、障がいのある社員にとって「やりにくい作業(通称:にくい作業)」の改善にも関わることもありますが、私たちは直接現場に入るというより、人と環境、仕事内容のマッチングなど、少し離れたところで整備していくような役割を担っています。

やりがいを感じるのは、やっぱり、障がいのある仲間たちが、現場でいきいきと働いている姿を見たときですね。

オムロン太陽で働く仲間たちみんなが前向きに頑張っている姿を見ると、心からうれしくなりますし、応援したいという気持ちになります。


かわむー
かわむー

松枝さんのまなざしが、とてもあたたかくて素敵だなと思いました。離れたところから支える立場だからこそ見えてくること、届けられる想いがたくさんあるのだろうなと感じました。

これまで長くオムロン太陽で働いてこられたなかで、特に印象に残っている出来事や、心に残っているエピソードがあればお聞かせいただけますか?


松枝さん
松枝さん

やっぱり一番うれしいのは、「できなかったこと」が少しずつ「できるようになっていく」瞬間に立ち会えることです。特に現場で働いていた頃は、そんな場面にたくさん出会うことができました。

なかでも印象的だったのは、知的障がいのある方と同じラインで働いたときのことです。それまで人生であまり関わる機会がなく、どう接したらいいか分からなかった私は、最初はうまくコミュニケーションがとれませんでした。何を聞いても返事がなくて、「どうしたら心を開いてくれるんだろう」と悩んだこともありました。

それでも諦めずに、休憩時間に少しずつ話しかけたり、何気ないやりとりを重ねていくうちに、だんだんと笑顔を見せてくれるようになったんです。最後の方には、しりとりをしたり、ハイタッチを交わしたりするまでの仲になりました。

仕事の面でも、最初はなかなか覚えるのが難しかったのですが、一緒に改善方法を考えながら取り組むうちに、少しずつできるようになっていったんです。「できるようになって、うれしいです!」と本人が言ってくれたときは、自分のことのようにうれしかったですね。

また別の場面では、片手しか使えない方のために、作業をサポートするための道具(自助具)を手作りしたこともあります。その方が「これ、家に持って帰りたい!」と喜んでくれたときの表情は、いまでも忘れられません。


かわむー
かわむー

できなかったことができるようになる喜びを、そばで一緒に分かち合える関係って本当にすてきだなと感じました。

これまでの歩みのなかで、たくさんの出会いや経験を重ねてこられた松枝さんですが、今後「こんなふうなことをしたい」「こんなことを目指していきたい」と思っていることがあれば、ぜひ教えてください。


松枝さん
松枝さん

これから力を入れていきたいのは、精神障がいや発達障がい、知的障がいのある方々の雇用や、活躍の場をもっと広げていくことです。

実際、社会全体でもこうした方々の休職や離職が増えているなかで、どうすれば無理なく働き続けられるか、どうすれば「働いてみよう」と思ってもらえるかを、真剣に考えていかなければならないと感じています。

オムロン太陽も、もともとは身体障がいのある方が多く働いていましたが、いまは精神・発達障がいのある方の割合も徐々に増えています。

ようやくその第一歩を踏み出したところで、まだまだこれからですが、一人ひとりがやりがいや居場所を見つけられるような環境づくりを、丁寧に続けていきたいと思っています。


リハビリに励む方へメッセージ

かわむー
かわむー

最後に、現在リハビリテーションに取り組んでいる方や、これから社会に一歩踏み出そうとしている方へ向けて、松枝さんからメッセージをいただけたらうれしいです。


松枝さん
松枝さん

そうですね。もしこの声が届くとしたら、「思っているほど、社会って生きづらくないし、あなたはひとりじゃないよ」ということを伝えたいです。

同じような境遇の人たちと話すことで、知らなかった情報が手に入ったり、日常生活の工夫や、生きるうえでの知恵を教えてもらえたりします。なので、できるだけ家の中に閉じこもらず、どんどん外に出ていって、いろんな人と関わってほしいです。

その出会いや経験のなかで、自分自身が少しずつ成長できるし、「これからどうしていきたいか」もきっと見えてくると思います。


かわむー
かわむー

松枝さん、背中をそっと押してくれるような、あたたかく力強いメッセージをありがとうございました。

「思っているほど、生きづらくない」「思っているほど、ひとりじゃない」という言葉には、松枝さんがこれまで歩んでこられた道のりや、そこで出会われた方々とのご縁、積み重ねてこられた経験が、深く込められているように感じました。

リハノワは、これからも松枝さんのさらなるご活躍を心より応援しております。

本日は貴重なお話をお聞かせいただき、本当にありがとうございました。

また、今回の取材にあたりご協力をくださったオムロン太陽の辻社長、ヒューマン・ルネッサンス研究所(オムロングループ)の立石さま、スタッフのみなさまに、心から御礼申し上げます。



かわむー
かわむー

<松枝さん関連記事・情報>

・【リハノワ】オムロン太陽 紹介記事
・【リハノワ】オムロン太陽で働く後藤さんの声
・オムロン太陽株式会社 ホームページ


ぜひ合わせてご覧ください。



以上、大分県別府市にあるオムロン株式会社の特例子会社「オムロン太陽株式会社」で働く、松枝幸大さんをご紹介しました。

ひとりでも多くの方に、松枝さんの素敵な想いと魅力がお届けできれば幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!


かわむーでした。

この記事は、株式会社Canvas様他パートナー企業様株式会社キャピタルメディカ・ベンチャーズ様個人サポーター様、読者の皆さまの応援のもと、お届けいたしました。なお、本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

※取材先や取材内容はリハノワ独自の基準で選定しています。リンク先の企業と記事に直接の関わりはありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました