みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!
今回は、大分県別府市にあるオムロン株式会社の特例子会社「オムロン太陽株式会社」で働く、後藤孝正さんにお話を伺いました。
後藤さんは、幼い頃に脳性まひと診断され、施設に入所しながら長年リハビリに取り組んでこられました。現在は、製造グループの一員としてものづくりの現場で活躍される傍ら、自分なりのリハビリの意味を大切にしながら、日々前向きに過ごされています。
この記事では、これまでの歩みや、お仕事を通じて育まれてきた想い、そして「楽しみながら続ける」ことを大切にする後藤さんのリハビリとの向き合い方をご紹介します。
後藤孝正さんの歩み

◆ 後藤 孝正(ごとう・たかまさ)さん
1968年、大分県別府市生まれ。生後まもなく脳性まひと診断され、幼少期から別府発達医療センターに入所。15歳まで施設で生活しながら、日々リハビリテーションに取り組む。高校卒業後は、社会福祉法人 太陽の家に入所し、作業訓練の一環として働きはじめる。24歳のとき、オムロン太陽株式会社に入社。製造グループの一員として、電子部品の組立や検査を担うなど、ものづくりの現場で活躍している。

現在は、オムロン太陽の製造グループでお仕事をされている後藤さんですが、これまでどのような日々を歩んでこられたのでしょうか。
もしよろしければ、幼い頃のことからお話を伺えるとうれしいです。

僕は幼い頃、「脳性まひ」と診断されました。発達の過程で、身体がうまく動かせない部分があったようで、診断を受けてすぐに、別府発達医療センターへの入所が決まりました。
当初は「母子入所」が必要でしたが、弟がいたため、母の代わりに祖母が付き添ってくれました。
5歳になる頃には単独での入所が可能となり、そこから中学卒業までの約10年間を、家族のもとを離れて施設で過ごすことになります。
敷地内には支援学校もあり、毎日、学校に通いながらリハビリを受けました。まわりには、同じような境遇の子もたくさんいて、お互いに励まし合いながら暮らしていました。
あの頃の生活は、まさに「日常生活そのものがリハビリ」だったように思います。


小学2年生くらいまでに、「腱切り」と呼ばれる関節の動きを良くするための手術を何度か受けました。ハムストリングスや内転筋、骨盤まわりの筋肉など、左右あわせて4回ほどです。手術してはリハビリ、また手術してはリハビリ、というのを繰り返していました。
身体も成長とともに変化していきました。小学校にあがる頃は、補装具と松葉杖を使って歩いていましたが、やがて補装具は短くなり、松葉杖からロフストランドクラッチ、そしてT字杖へと少しずつステップアップしていったのです。
学生時代は施設の中での生活だったので、T字杖でもなんとか過ごせていましたが、社会に出てからは階段や段差も多く、安全面を考えて再びロフストランドクラッチに戻しました。
いまも普段はロフストランドクラッチで歩いていますが、会社では場面によって車椅子も使っています。たとえば、急ぎのときや雨の日などです。
できるだけまわりに迷惑をかけずに働けるよう、工夫しています。


リハビリと向き合って

まだ幼い頃からひとりで施設に入所し、手術やリハビリに取り組んでこられたのですね。
当時、リハビリはどのような形で行われていたのでしょうか? ご自身のなかで印象に残っている出来事や、いまも記憶に残っている場面などがあれば、ぜひ教えてください。

リハビリでは、理学療法士(PT)と作業療法士(OT)の先生方にお世話になりました。なかでもPTの時間が多く、内容は筋トレというよりかはストレッチが中心でした。
とにかく、「痛かったなあ」という記憶が強く残っています。
脳性まひの特性上、筋肉が固くなることはあっても、柔らかくなることはなかなかありません。少しでも動く範囲を広げようと、地道に伸ばしていくことに力を入れていました。
僕は、「しんどいことも前向きにとらえて、楽しみながら続けていく」というスタンスが、リハビリを継続するうえで大切なんじゃないかと思っています。
リハビリって、すぐに結果が出るものではないですよね。だから、途中でやめてしまう人も多いと思います。仕事が忙しくなったとか、時間がとれないとか。誰かに頼まれてするものでもないし、結局は自分とどう向き合うかが大切になります。
僕自身も、正直リハビリは本当にしんどかったです。それでも、「これは一生付き合っていくものだ」と、どこかで腹をくくっていたようにも思います。
これから先、環境や状況はいろいろと変わるでしょうけれど、自分にとってリハビリはずっと必要なもの。だからこそ、「どうすれば前向きに続けられるか」「モチベーションを保ち続けられるか」をいつも考えるようにしてきました。

後藤さんのお話を伺っていて、あらためて「リハビリを続けることの難しさ」について考えさせられました。実は私自身、このメディア「リハノワ」を立ち上げた背景にも、「どうすればリハビリを前向きに続けられるのか」という想いがあります。
後藤さんはこれまで、どんなきっかけや支えがあって、モチベーションを保ち続けてこられたのですか?

僕の場合は、施設の中でいろんな方の姿を見てきたことが大きかったです。「この人に比べたら、僕なんかまだまだだな」って思うこともたくさんあったし、先生や家族、友達の存在にずいぶん支えられました。
なかでも、印象に残っているのは、北九州から新卒で来られていた作業療法士の先生です。本当によく話を聞いてくれる、あたたかい方でした。
あるとき、その先生がこんなふうに声をかけてくれたんです。
「リハビリをやめるのは簡単。やけど、一旦やめてしまったものを元に戻すのが、どれだけ大変か分かるやろ。分かっているなら、いまがしんどくても続けた方がきっといい。いまはリハビリができる環境にあるんだから、甘えんで、しっかりやりなさい」と。
やさしい言葉なんだけど、芯があるというか、すっと心に残る言葉でした。


ご家族をはじめ、同じ境遇の仲間やリハビリの先生との出会いが、リハビリを前向きに続けてこられた大きな支えになっていたのですね。ひとつひとつの言葉の裏に、あたたかな関係性があることを感じました。
施設を出られてからは、どのような暮らしを送られていたのですか?

高校生になってからは、自宅から学校に通うようになりました。はじめて「家から通学する」という暮らしが始まり、それはそれで嬉しかったのですが、やっぱり家に帰ってしまうと、リハビリはまったくできませんでした。
年齢的なこともあって、当時はそれでもなんとかなっていたんです。身体がそこまで固くなることもなかったし、動きにくさを感じることもなかったので、「いまは大丈夫だからいいか」と思っていました。
でも、社会に出て働くようになって、年齢を重ねていくうちに、だんだんと気づき始めたんです。「ああ、あの3年間、だいぶサボってたな」と。昔、先生が言っていた「一旦やめてしまったものを元に戻すのは大変」という言葉を、身をもって実感するようになりました。
なので、「もう一度、ちゃんと向き合おう」と思い直し、リハビリを再開することにしたんです。
本格的にリハビリを再開したのは、30歳頃のことでした。いまはご縁があって、中村病院の外来に通っています。ここには、やさしくて、厳しくて、頼りになるセラピストの方々がたくさんいらっしゃって、とてもありがたい環境です。
いまは「1日でも長くロフストランドクラッチを使って歩く」という目標をかかげ、リハビリに取り組んでいます。

オムロン太陽との出会い

後藤さんがこれまで、リハビリと丁寧に向き合いながら歩んでこられたことが、とてもよく伝わってきました。
ここからは、お仕事についてもお伺いできたらと思います。高校を卒業されたあとの歩みや、現在のお仕事につながるまでの経緯について、ぜひお聞かせいただけますか?

高校を卒業して最初に働いたのは、「社会福祉法人 太陽の家」でした。18歳のときです。お声がけくださった方がいたことや、すでに先輩が働いていたこともあり、「ここで働いてみたいな」と思い、就職を決めました。
当時は、一般就労ではなく、入所しながらの「作業訓練」という形でした。仕事内容は、製品の前組みの工程で金具を入れたり、箱を折ったりする作業が中心でした。ここで、24歳まで働くことになります。
転機となったのは、当時の太陽の家の事務局長さんからのお声がけでした。
「オムロン太陽で働いてみないか?」「試験を受けてみたらどう?」と勧めてくださったんです。さらに、オムロン太陽で働いていた知人も、僕の普段の様子を見てくれていて、「孝正なら大丈夫」と、あたたかく背中を押してくれました。
そうした周りの方々の支えがあって、いまの仕事へとつながっていきました。



一般就労という新たなステージに進まれて、きっと環境にもいろいろな変化があったのではないかと思います。
オムロン太陽で働くにあたって、後藤さんはどのようなところに魅力を感じられたのですか?

オムロン太陽では、障がいがある人もない人も、みんなが一緒になって働いています。
僕がいちばん魅力に感じたのは、異なる背景や考え方をもった人たちが、それぞれの個性を大切にしながら、一緒に関わり合っているというところです。
同じ病気や障がいをもっていたとしても、その人の生きてきた道や心のあり方は本当にさまざまです。そういった人たちと日々話をしたり、身近な距離で一緒に働けたりすることに、ありがたさを感じました。
まわりを見ていると、みなさん悩みがあったとしても、最終的には「よし、また頑張ろう」と前を向いているんですよね。
僕自身も、いつのまにか自然とそんな気持ちをもてるようになっていて、それは、この職場で働けているからこそだと思っています。


実際に仕事をするなかで、何か印象に残っていることはありますか?

これまで働いてきたなかで、とくに印象に残っているのが、「はんだ付け」ができた瞬間です。
脳性まひの影響で手足に震えがあるので、自分でも「これはさすがに無理だろう」と思っていました。両手を同時に使う動作が難しく、正直、諦めていたところもありました。
でも、まわりの方が僕に合わせた特別な治具を作ってくださったり、作業工程を工夫してくださったりして、生まれてはじめて「はんだゴテ」を握ることができたんです。
「できた!」と感じたあの瞬間の感覚は、いまでも鮮明に覚えています。それは、自信にもつながる大きな経験でしたし、その後、はんだ付けの資格まで取ることができました。
前の工程も、後ろの工程も、それぞれの担当の方が配慮してくださっていて、みんなで支え合いながら一つの作業が成り立っていたと思います。「一人じゃできないことも、まわりと一緒ならできるんだな」と感じた、大切な出来事でもありました。

想いを形にできる喜び

まわりの方々と力を合わせながら「自分にもできた!」と実感できた経験が、後藤さんにとってどれほど大きな意味を持っていたのか。お話のトーンが自然と明るくなっていく様子からも、その喜びがひしひしと伝わってきました。
そうした日々を過ごすなかで、後藤さんのなかに芽吹いてきた気持ちや、広がっていった世界があれば、ぜひお聞かせいただけますか?

働くようになって、お金を得られるようになったことで、「チャレンジしてみたい!」と思えることが、ぐんと増えました。
たとえば、少し遠くまで旅行に出かけてみたいとか、いろんなことを経験してみたいとか。実際に、車の免許もとりましたし、ダイビングのライセンスも取得しました。
ダイビングは、リハビリの一環として始めたんです。水中だと身体がふわっと浮いて、普段よりずっと自由に動けるので、「楽しみながらリハビリできたらいいな」という思いで挑戦しました。海の奥深くまで潜って見る世界は本当に美しくて、かけがえのない体験になりました。
そして何より、母や祖母をはじめ「これまで支えてくれた人たちに、感謝を形にして返したい」という想いが、どんどん大きくなっていったように思います。
そばで支えてくれた人たちに少しずつでも恩返しができたらと思いながら、いまでも仕事に取り組んでいます。

どんどんと想いを形にされていく姿が、とても素敵です。
これから先、「こんなふうに過ごしていきたい」「こんなことに挑戦してみたい」と思われていることがあれば、ぜひお聞かせください。

これからも、「自分なりのリハビリの意味」を見失わずにいられる間は、そのときどきの状況に合ったQOL(生活の質)を保つためのリハビリを、しっかり続けていきたいと思っています。
いまの自分にとっては、「仕事に行くため」「自分の足で動くため」のリハビリが大切です。
ロフストランドクラッチとの付き合いも長くなり、最近では腕に負担を感じることも増えてきました。身体のケアも意識しながら、少しでも周りに迷惑をかけないように、これからも前向きな気持ちで取り組んでいきたいです。
それから、僕はラグビーが大好きなんです。仲間と支え合いながら1つの目標を目指していく、ラグビーの「ワンチーム」という考え方に強く惹かれています。
ラグビーを通じて出会った大切な方々が京都にいるので、その方々にいつでも会いに行けるような体の状態を、これからも保っていきたいと思います。

リハビリに励む方へメッセージ

最後に、同じようにリハビリに励んでいる方々に向けて、後藤さんからぜひメッセージをお願いできますでしょうか。

リハビリって、たしかにしんどいですし、「面倒だな」と感じることもあるかもしれません。頑張ってもすぐに結果が出るわけではないので、「やってる意味あるのかな?」と思う日もあるでしょう。
でも、物事って、続けることで意味が生まれるものだと僕は思っています。リハビリも、少し時間が経ってから、「あのとき続けていてよかったな」と思えるような、そんなものかもしれません。
だからこそ、「その景色が見えるまで、もうちょっとだけ頑張ってみようかな」と思ってもらえたら嬉しいです。僕自身、そんなふうに思いながら、いまも日々リハビリに取り組んでいます。
これまで、僕は良い出会いにたくさん恵まれてきました。リハビリの先生方、仕事で出会った仲間や先輩方たち。迷ったときや挫けそうになったときに、そばで支えてくれる人がいることのありがたさを、何度も感じてきました。
リハビリには、つらいことばかりじゃなくて、きっと「いいこと」もたくさんあります。
いま、療法士として働いている方や、これから目指すみなさんにも、ぜひ「リハビリやってよかった」と思えるような瞬間を、ひとりでも多くの人に届けていってほしいと思います。

後藤さん、心に染み渡る素敵なメッセージをありがとうございました。
リハビリテーションは、すぐに成果が見えにくく続けることが難しい。それでも、自分なりの意味を見つけて、目標を掲げ、今できることを着実に積み重ねていく後藤さんの姿に、私自身、大きな勇気をいただきました。
今回いただいた言葉のひとつひとつに、後藤さんが歩んでこられた道のりや、大切に育んできた想いがしっかりと息づいているのを感じます。
リハノワはこれからも、後藤さんの挑戦を心から応援しています。
本日は、貴重なお話をお聞かせいただき、本当にありがとうございました。
また、今回の取材にあたりご協力をくださったオムロン太陽の辻社長、ヒューマン・ルネッサンス研究所(オムロングループ)の立石さま、スタッフのみなさまに、心から御礼申し上げます。


<後藤さん関連記事・情報>
・オムロン太陽 紹介記事|リハノワ
・オムロン太陽で働く松枝さんの声|リハノワ
・オムロン太陽株式会社 ホームページ
ぜひ合わせてご覧ください。

以上、大分県別府市にあるオムロン株式会社の特例子会社「オムロン太陽株式会社」で働く、後藤孝正さんをご紹介しました。
ひとりでも多くの方に、後藤さんの素敵な想いと魅力がお届けできれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!
かわむーでした。

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