ICUから地域に飛び出した理学療法士・河添有希さんの新たな挑戦 | える訪問看護ステーション

みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!

本日は、株式会社えるの代表で理学療法士の河添有希さんをご紹介します。

河添さんは、病院の理学療法士として約12年間勤務された後、2022年に会社を設立し代表取締役に就任。現在は「える訪問看護ステーション」を大阪府門真市を拠点に展開されています。

実際に2022年5月にオープンしたえる訪問看護ステーションの事務所に伺い、これまでの歩みや起業のきっかけ、今後に思い描くことなど熱い思いを伺ったのでその魅力をお伝えします。

(取材は開所前に実施)

理学療法士・河添有希さん

◆ 河添 有希(かわぞえ・ゆうき)さん
1988年 兵庫県西明石市出身
株式会社える 代表取締役社長

<資格>
・理学療法士
・認定理学療法士(呼吸)
・3学会呼吸療法認定士

<略歴>
2010年 医療法人弘仁会熊本総合リハビリテーション学院卒業
2010年 医療法人和風会千里リハビリテーション病院
2013年 社会福祉法人恩賜財団大阪済生会中津病院
2020年 社会医療法人彩樹守口敬仁会病院
2021年 しあわせ訪問看護ステーション
     守口敬仁会病院にて非常勤コンサル
2022年 株式会社える創業

<学会発表>
日本呼吸ケアリハビリテーション学会にて多数

<書籍・連載>
・セラピストのための臨床における治療戦略を助けるエビデンスの活用方法. 医学書院
・訪問リハのためのルールブック. 株式会社gene
・3学会呼吸療法認定士に関するオンライン記事連載. メディカ出版株式会社

阪神大震災を経験して

かわむー
かわむー

超急性期から回復期まで幅広くご経験され、特に呼吸領域では多くの実績を残された河添さんですが、そもそも理学療法士を目指したきっかけは何だったのでしょうか?


河添さん
河添さん

私がリハビリの道に進んだのは、理学療法士である父(河添 竜志郎)の存在が大きいかと思います。

もともと高校生くらいまでは建築士やインテリアデザイナーになりたかったのですが、高校2年生の末くらいに「姉歯事件」が起こり、建築業界に進むことを断念しました。

「将来食いっぱぐれないことが大事だよ」と父に言われたのをきっかけに、手に職をつけるために国家資格を取ろうと、一番身近だった「理学療法士の道」に進むことを決めました。


かわむー
かわむー

河添さんのお父様・竜志郎さんといえば、リハビリ界でとても有名ですよね。熊本で地域に根ざした介護事業を展開されているほか、住宅機器メーカーや医療介護用ベッドメーカーの顧問も務められるなど、幅広くご活躍されています。

息子さんが自分と同じ道に進むことになり、とても嬉しかったでしょうね。

幼い頃の河添さんに、理学療法士であるお父様はどう映っていましたか? 幼少期の頃のお話をお聞かせください。


河添さん
河添さん

父はもともと兵庫県明石市の病院で脊髄損傷の方のリハビリに携わっていましたが、現在は彼の地元である熊本県で「くますま」という会社を経営し、訪問看護ステーションやデイサービス、在宅生活のトータルサポート事業を展開しています。

私は、父が明石市の病院に勤務していた時に生まれ、小学1年生で被災(阪神大震災)するまでそこで暮らしていました。

父は、とにかく使命感が強く、いつも仕事をしていた印象です。

阪神大震災の当日も、家族の身の安全を確保して直ぐに病院に駆けつけていました。その後も、全国から集まる医療従事者のボランティアを取りまとめるために、西宮まで行って活動をしていたらしいです。

地震発生から1週間程して、私と2つ下の妹は、母親に連れられて両親の実家のある熊本に移住。その数ヶ月後、もともと地元である熊本に帰るつもりだった父も移住してきて、家族4人での生活が再開しました。



かわむー
かわむー

河添さんは、阪神大震災をご経験をされていたのですね。熊本へ移住し転校もされ、さらにはお父様とも一時的に離れ離れの生活になるなど、相当寂しい思いをされたことと思います。


河添さん
河添さん

阪神大震災は、自宅マンションはやや傾き、近くの木造アパートは潰れてしまうほどの大きな揺れでした。近所のスーパーは2〜3日後に営業再開しましたが、必死に食料を買う人で溢れかえります。友達にも会えず、一週間くらいずっと家の中でビデオを見て過ごしていましたね。

当時、被災した人のために歌われていた「春よこい」を聞くと、今でも地震を思い出すくらい強いトラウマとなっています。

熊本に移住後は、「被災難民の河添さん」と言われ、小学校ではサッカーの観戦チケットや1週間分のおかし、ランドセルなどが熊本県から支給されました。はじめのうちは方言が分からなくて嫌な思いもしましたが、次第に馴染むことができました。

父は私が小学校高学年の時に起業。家には、リハビリ関係者や父が開発顧問を務める会社の方がよく来ていて、私も一緒になって接待していました。そんな環境で育ったので、理学療法士はとても身近な存在でした。ただ、ちょっと特殊な環境だったかとは思います。

高校卒業後は、父の母校でもある熊本総合リハビリテーション学院に進学しました。


父に対する劣等感

かわむー
かわむー

理学療法士の道に進まれた河添さんですが、学生時代はどのように過ごされましたか?

お父様が有名な理学療法士となると、周りからの期待もかなりあったのではないでしょうか。


河添さん
河添さん

そうですね、理学療法士の道に進んだのはいいものの、いつまで経っても父の存在がついてくるのは現実としてありました。

家に著名なセラピストの先生が来たり、業者の人が来たり、実習に行っても職員が私の元へ挨拶にくるような状態です。「河添先生の息子さんだから言わなくてもわかると思うけど…」という前置きがあり指導を受けるのはけっこう苦痛でしたね。

父に気に入られたいから自分に寄ってくる人も多いのかなと、人のことがあまり信じられないようにもなっていきます。

そこにいるのは、「河添有希という私」ではなく「河添竜志郎の息子である私」だったのです。そう感じずにはいられない状況でした。

そういった経験から、父に対する劣等感は常に感じていましたし、恐怖心からつっぱってみたり反抗した態度をとってみたりすることもありました。

学生時代はとにかく夢中になって遊びました。学校が終わってみんなでゲームをして、ボーリングに行って、温泉に行って、夜景をみて、明け方にラーメンを食べて。そんなところに楽しさを見出し、学校では「会長」と呼ばれるいわゆる飲み会部長も担い、同級生や後輩たちを引っ張っていました。

一方で、勉強は留年すれすれラインをいつも綱渡り。再試験も何度受けたか分かりません。「最初からやればいいのに…」と言われることも、やる気が起きずやらない選択肢をとることは多くありました。今振り返れば、なめた行動してたな〜って感じですね。



かわむー
かわむー

河添さんにもそのような過去があったのですね。お父様への劣等感からくる反抗心が前向きな力に変わったきっかけなどはありますか?


河添さん
河添さん

正直、昔から要領は良い方だったので、1期目と2期目の実習では良い成績をとることができていました。

しかし、「3期目の実習も余裕」と私が口にしたのを聞いた父親が激怒して、すごい形相で殴られました。その時は「なんでこんなことで」と思いました。

その後、当時、熊本で教員をしていた元参議院議員で理学療法士の小川克己先生にも呼び出されます。「著名な理学療法士の息子」というレッテルをはられ、親に対する劣等感や恐怖心から反発をつづける私をなだめるかのように、先生はじっくりと時間をとって私に色んな話をしてくれました。その時は、大号泣しましたね。

その一件で少し考え方を転換できたのか、3期目の実習はもちろん理学療法士免許取得後も、以前とは違い多少は真摯に取り組めるようになったかと思います。

専門学校を卒業したら地元・関西に戻ろうと思っていた私は、父親とも相談し、吉尾雅春先生のいる千里リハビリテーション病院に就職することを決意。医療だけではなく介護領域やケアの面もしっかりと経験できることに魅力を感じ、ファーストキャリアは回復期病院を選んだのでした。


ICUで得た学び

かわむー
かわむー

幼い頃から様々な理学療法士、その働き方に触れてきた河添さんは、自身の理学療法士人生をどのように歩むかについて、就職当時から考えていたことはありますか?


河添さん
河添さん

明確にありましたね。

私は、まずは回復期からスタートして、その後に急性期を経験、ゆくゆくは在宅をみれるようにしようと考えていました。

また、いずれ父の会社を継ぐ可能性も0ではないなと思っていたので、父の会社の優秀な職員にも認めてもらえるような自分の強み得意分野を作ろうと考えました。

父と母が整形畑であったことや、たまたま周りには呼吸循環などの内部疾患に弱い人たちが多かったので、今後の広がりも考え、内部疾患に力をいれることにしました。


かわむー
かわむー

私が河添さんを知ったきっかけは、ICUや呼吸領域のリハビリに関する情報発信をされていたことにあります。現在は閉鎖してしまいましたが、当時、呼吸機能障害に対する理学療法に必要な知識をWEBサイトにブログ形式でまとめられており、それを見て日々勉強させてもらっていました。

今はもう見られないのが残念なくらいとても有益なサイトでした。知識量やその分かりやすさから「この人、やばいな…」と、知り合う前から思っていました。


河添さん
河添さん

ありがとうございます、見てくれていたんですね。そのブログを始めたのは、集中ケア領域である程度患者さんを任されるようになった急性期経験6年目くらいの時でした。

回復期病院に約3年間勤務した後、「次は内部疾患、特に集中治療ケアについて学びたい」と思い、大阪済生会中津病院に転職しました。これまでリハビリ病院で状態が安定した人しか診たことがなかったので、最初はTKA(人工膝関節置換術)術後の方の血を見るのも怖いくらいでした。

転職して半年くらいして、念願の集中治療チームに配属。しかし、ICUに行っても人工呼吸器の設定やモード、医師がカルテに書く単語や検査データの見方がわかりません。朝早く出勤しカルテで情報収集をしても、その後のミーティングで上司から聞かれて分からない用語が一つでもあると、診療はさせてもらえませんでした。

チームに配属され2年間くらいは、これでもかというくらい勉強漬けの日々を送りました。それは、寝ている時も人工呼吸器のアラームが聞こえてきたり、肺や心臓に手が生えたものが夢の中で追いかけてきたりするほどでした。

初めてICUの患者さんの診療に入れたのは、チームに配属され1年ほど経過した頃でした。


かわむー
かわむー

私もICUの現場にいた身として、その辛さは痛いほど分かります。当時は大変だったかもしれませんが、厳しい上司に恵まれたことも成長に繋がる良いご縁だったのではないでしょうか。

実際に河添さんは、臨床ではどのようにして学びを深めていかれていましたか? また、学び続けられる原動力は何だったのでしょうか。


河添さん
河添さん

私はとにかくカルテを通して学びを深めました。分からない単語があったら直接医師に聞きに行ったり、研修医のカルテの書き方を真似してみたりしてトレーニングを積み重ねました。

そのうち、ICUでの診療の流れが掴めるようになると多職種との連携が必要になりました。看護師さんの仕事や考えていることを知るために、積極的にコミュニケーションを図るようにしました。シーツをひくなどちょっとした業務の手伝いをしながら、少しずつ色んなことを教えてもらうのです。

看護部に入るくらいの勢いで関わり、のめり込んでやっていたら、ICUでのリハビリ時間の調整が上手くできるようになりどんどん働きやすくなっていきました。

そのように呼吸領域を追究していった私ですが、その原動力は祖父にあるかもしれません。

祖父は、私が中学1年生の時に喀血で病院に運ばれ、間もなく帰らぬ人となりました。当時はなぜ祖父が亡くなったのか理解できず、病院の医師が大好きな祖父を見殺しにしたのではないかと攻める気持ちもありました。

祖父が喀血をして亡くなった理由を知りたい、解明したいといった当時から私のなかにある探究心が、内部障害の学びを深める原動力になっていたかもしれません。


起業という選択と挑戦

かわむー
かわむー

臨床でバリバリと働かれていた河添さんが、起業を決意したきっかけはなんだったのでしょうか?


河添さん
河添さん

守口敬仁会病院の総合内科部長をされている寺西 敬先生とのご縁がきっかけです。

寺西先生には済生会中津病院でお世話になっていたのですが、先生が渓仁会病院に移動した直後に私も誘いをうける形で同病院に転職しました。

その時はICUのリハビリを立ち上げる役割を任され転職したのですが、ちょうどCOVID-19の第1波が日本にやってきた時期だったので、対応の仕方やゾーニングの設計、文献検索、マニュアル作成など寺西先生と一緒になって取り組みました。

入職して1ヶ月でRST(呼吸ケアチーム)を結成し、人工呼吸器を動かすフローを作成、人工呼吸器の導入もしました。

その後、寺西先生と地域に必要とされている訪問看護事業を立ち上げようという話になりました。急性期を経験後は在宅領域で事業をしたいと思っていたので意気投合し、新たに法人を設立し事業を開始することになりました。

正直、熊本の実家を継ぐか迷いもありましたが、ご縁も大切にしながら自分にしかできないこともあると信じ、挑戦する道を選んだのです。

2021年10月に株式会社えるを創設し、代表取締役社長に就任。翌年の5月、大阪府門真市に1号店である「える訪問看護ステーション」を開所しました。


える訪問看護ステーションのシンボルマーク(HPより引用)


かわむー
かわむー

当初の構想通り、一歩ずつ着実に進まれていて素晴らしいですね。

最後に、株式会社えるの代表として今後に思い描くことを教えて下さい。


河添さん
河添さん

経営の方針としては、ライフイベントがたくさんある若い女性の働きやすい環境を整えていこうと考えています。

これからの社会において女性の働きやすい環境を整えることはマストだと思います。特に、子どもが小1〜小3の時の働き方に悩む人は多い印象なので、そこを皆で補えるような仕組みを作りたいです。

その他、実績を残している人がちゃんと評価される制度や、管理者の采配により自走する仕組みができるように設計しています。

今後は、数年以内に2店舗目をオープンし、まずは大阪近郊で5〜6箇所は広げていきたいと考えています。

西日本エリアの訪問看護といえば「える」、と言われるくらい大きくしていきたいですね。



かわむー
かわむー

あらゆる領域を網羅され、何事もストイックに且つスマートにこなしてみせる河添さんの今後の挑戦が楽しみでなりません。

ホームページに書かれた、「患うことに起因する様々な憂いの連鎖の無い社会を実現する」というビジョンと、「時流を読み専門性と人間性をもって真っ当に臨む」というミッションからは、まさに河添さんの人生観が感じられます。

開所後のお話も、ぜひまたお聞かせいただきたいです。

ICUの理学療法士だった当時から私の尊敬する河添有希さんのご活躍、そして、える訪問看護ステーションの今後の発展を心から応援しております。

本日はありがとうございました。


える訪問看護ステーション概要

 株式会社える
代表取締役社長 河添有希さん

 創業
2021年10月

事業内容
訪問看護
(1号店である門真店が2022年5月1日 開所)

■ ビジョン
患うことに起因する様々な憂いの連鎖の無い社会を実現する

ミッション
「時流を読み専門性と人間性をもって真っ当に臨む」

■ バリュー
・必要十分な介入を行い、不必要な医療機関へのアクセスを防ぐ
・職員の自己犠牲に頼らない
・重症患者を積極的に看る
・対話する

■ 所在地問い合わせ
大阪府門真市元町8‐4アンシャンテ高宮1F
TEL:06-6991-8471
FAX:06-6991-8472

■ 関連サイト・SNS
HP(える訪問看護ステーション)
Instagram(える訪問看護ステーション)
Twitter(える訪問看護ステーション)


写真提供:
くらしフォトグラファー・しんたろう




以上、本日は株式会社えるの代表で理学療法士の河添有希さんをご紹介させていただきました。


一人でも多くの方に、河添さんの魅力と素敵な想いがお届けできれば幸いです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!


かわむーでした。




この取材は、本人の同意を得て行なっています。本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒宜しくお願い申し上げます。

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※取材先や取材内容はリハノワ独自の基準で選定しています。リンク先の企業と記事に直接の関わりはありません。

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