みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!
今回は、岡山大学病院のパラスポーツヘルスケア外来に通う、卓球プレイヤーの岡紀彦さんにお話を伺いました。
岡さんは、日本初の障がい者プロ卓球選手として、1988年から2012年まで25年間連続で日本一の座に君臨しました。また、シドニー、アテネ、北京のパラリンピックに出場し、卓越した技術と精神力で日本パラ卓球界を牽引してきたレジェンドです。
本記事では、岡さんが成し遂げた数々の偉業やその裏側に迫り、卓球にかける情熱とこれまでの歩みを紹介します。
卓球プレイヤー岡紀彦さん
◆岡 紀彦(おか・としひこ)さん
1964年3月26日生まれ。岡山県岡山市出身。先天性骨形成不全症による骨折を30回以上経験し、症状が落ち着いた中学2年の頃から卓球を始める。県立岡山養護学校卒業後、印刷会社やハウスメーカーに勤務する傍ら、卓球に励んだ。2002年2月より日本初の障がい者プロ卓球選手として活動を開始。日本肢体不自由者卓球選手権大会(現:全日本オープンパラ卓球選手権大会)の車いすの部では、1988年から2012年まで25連覇という大記録を達成した。パラリンピックは、シドニー、アテネ、北京大会に出場し、アテネ大会ではクラス別個人戦(クラス5)でベスト16に入る。座右の銘は「ピンチはチャンス」
先天性骨形成不全症とは(指定難病274)
公益財団法人 難病医学研究財団/難病情報センター より引用一部改編
全身の骨脆弱性による易骨折性や進行性の骨変形に加え、さまざまな程度の結合組織症状を示す先天性疾患。発生頻度は約2~3万人に1人。臨床症状は易骨折性、骨変形などの長管骨の骨脆弱性と脊椎骨の変形に加え、成長障害、青色強膜、歯牙(象牙質)形成不全、難聴、関節皮膚の過伸展、心臓弁の異常など。
骨折と闘う幼少期の日々
日本初の障がい者のプロ卓球選手として、さまざまな偉業を達成されてきた岡さんですが、卓球に出会う前や幼少期の生活についてお聞きしてもよろしいでしょうか。
私は先天性骨形成不全症という病気を持って生まれました。この病気は骨が非常に弱く、14歳までに約30回の骨折を経験しました。骨折の多くは足で、平均すると年に2回の計算になります。
当時の治療はほとんどがギプス固定で、1回の骨折でだいたい2〜3ヶ月は固定されます。そのため、年間の半分くらいはギプスをつけて生活していました。
小学校は地域の学校に通う予定でした。通学がしやすいように学校の近くに引っ越しまでしましたが、学校側から「入学は難しい」と障がいが理由からか断られてしまいました。
母が校長室で頭を下げてお願いしている姿は、いまでも鮮明に覚えています。しかし、最終的には受け入れてもらえず、県立岡山養護学校に通うことになりました。最初の1年は自宅から通学しましたが、2年生からは岡山にある障がい者施設「旭川荘」内の肢体不自由児施設の療育園に入園し、高校3年生までの11年間お世話になりました。
施設での生活は、私にとって多くのことを学ぶ貴重な時間となりました。
14歳までに30回も骨折を経験されてきたとは、本当に大変でしたね。移動や体育の授業など、学校での生活にもいくつか制限が生じそうです。
入学後、学校生活はいかがでしたか。
骨折を繰り返しながらも、最初は松葉杖を使って歩いていました。しかし、小学2年生の頃からは車椅子も使って生活するようになります。
車椅子を使うようになり、当時の私はとても喜びました。自分の足で歩く時は、ゆっくり慎重に歩いていたのですが、車いすに乗った瞬間、猛スピードで走れるようになったのです。歩いている人をスイスイと追い抜くことができ、誇らしい気持ちさえ感じていました。
また、当時の私にとって、車椅子はローラースケートのような遊び道具のひとつでもありました。友達と競争したり、ウイリーをしたりして楽しんでいました。
スポーツは大好きで、特に野球が好きでよく観戦していました。骨折のリスクがあるので激しい運動は控え、体育の授業は見学することが多かったです。
その代わりに、手を使った遊びをよくしていました。そのため、手先は器用な方だと思います。これが後に卓球競技において大きなプラスになりました。
リハビリの先生との出会い
車椅子生活になった後も、繰り返し起こる骨折に悩まされたことと思います。骨折に対するリハビリはどのように行われていましたか? 印象に残っているエピソードもあれば、ぜひお聞かせください。
リハビリは、施設にいる理学療法士の先生に見てもらっていました。内容は、筋力強化や生活のリハビリがメインで、骨折治癒後の関節可動域練習(ギプスを外して硬くなった関節を動かす練習)はとても辛い記憶として残っています。
その先生は、身体だけでなく精神面にも常に気を配りながら私に寄り添い、とても可愛がってくれました。
リハビリの先生との、忘れられない思い出があります。
中学生の頃、寝ている間に大腿骨を骨折したことがありました。筋肉が骨を引っ張って、骨折したのだと思われます。夜中に激痛で目が覚めましたが、朝になるまで我慢して耐え、人が来るのを待ちました。
しかし、朝になって夜の出来事を訴えると、「寝てて骨折することはないかなぁ…」と信じてもらえず、少し離れた場所で失笑されている姿も見え、とても辛かったのを覚えています。
そんな中でも、リハビリの先生だけは私の話しをしっかりと聞いてくれました。そして、痛みや症状の記録の仕方や医師とのコミュニケーションについて、「こうするといいよ」とアドバイスをくれたのです。
そのアドバイスは、今でも私を助けてくれます。身体に異常があったときは、その症状を細かく記録し、病院で正確に伝える習慣が身につきました。
理解されにくい病気ですが、自暴自棄にならずに踏みとどまれたのも、リハビリの先生の愛情のおかげです。本当に感謝しています。
卓球人生のはじまり
卓球を始めたのは、骨折が落ち着いてきた中学2年生の時だったそうですね。卓球にしたきっかけは何だったのでしょうか。
学校や施設ではさまざまなスポーツに挑戦できる環境が整っていましたが、私が卓球を選んだ理由は、球技が大好きであること、そして体の小さな選手でも大きな選手と対等にプレーできる競技だったからです。
私は当時も負けず嫌いで、楽しむためでなく、勝てるスポーツをやりたいと思っていました。卓球では手先の器用さがとても重要になるので、卓球を選んで大正解だったと思います。(後に聞いた話ですが、実は周りの先生たちがそうなるように導いてくれたそうです。)
それからは、学校や施設で先生や職員のみなさんが毎日指導してくれました。
後に、日本初の障がい者プロ卓球選手となる岡さんですが、どのようにしてその技術を磨かれていったのでしょうか。才能が開花したきかっけやその過程、そして卓球へのあくなき探究心が育まれた環境が、とても気になります。
高校時代までは施設や学校で練習をしていました。卒業後、自動車の免許を取得し、印刷会社に就職してからも、仕事をしながら地元の卓球クラブと障がい者チームで活動を続けました。週に2~3日、練習を行っていました。
障がいの有無に関係なく多くの人と練習を重ねるうちに、卓球仲間がどんどんと増え、さまざまなクラブチームに出入りするようになりました。
転機となったのは、家族で岡山県中東部にある山陽町(現 赤磐市)に引っ越し、そこのクラブチームに通うようになったことです。そこはとても熱心な人ばかりで、後にシドニーオリンピックに出場した女子中学生選手も所属しており、非常に高いレベルでの練習が行われていました。
当時、車椅子選手として全国大会(現:全日本オープンパラ)で4年連続ベスト8だったのですが、山陽町に引っ越してから1年後の23歳の時に、念願の初優勝を果たしました。そこから25連覇が始まったのです。
パラ卓球界初!プロ選手の誕生
2002年にプロ契約が決まり、障がい者で初となるプロ卓球選手となられた岡さんですが、実際にプロとして活動を始めてからはいかがでしたか?
スポーツで生計を立てることは、多くの人にとって夢であり、大きな希望を与えたのではないでしょうか。
私のプロ卓球選手としての歩みは、2002年2月に始まりました。
2000年シドニー大会がパラリンピック初出場でしたが、パラスポーツ先進国との競技環境の違いを痛感し、仕事と競技の両立の難しさに思い悩む日々が続きました。
そんな時、シドニーパラリンピックで一緒だった陸上選手が「障がい者初のプロ陸上選手誕生!」と紹介されている記事を目にし、とても勇気をもらいました。「パラ卓球界では、私が一番になれれば…!」と思い、多くに人に相談し、協力を得て、ついにスポンサー企業と巡り合うことができました。
しかし、当時は車椅子利用者は就職できるだけでも良いとされる時代です。勤めていた会社は退職しなければならず、年間5~6回の海外遠征費用は全て自己負担。1社だけの支援では経済的にはとても厳しい状況でした。
両親は大反対し、職場の上司もとても心配してくれましたが、スポーツ施設に勤務している妻が「このチャンスを逃したら一生後悔する」と強く後押ししてくれたことで、腹をくくることができました。この時、私は36歳でした。
それからは練習時間も十分に確保でき、ラケットや車椅子の細かい調整も思う存分できる生活になりました。
成績も向上し、日本チャンピオンのタイトルは死守し続けました。メダリストにはなれませんでしたが、2004年アテネ、2008年北京とパラリンピックには連続で出場することができました。
プロとして活動を開始してからも、素晴らしい成績を次々と出されていて、本当にカッコいいです。
勝ち続けるためには、卓越した技術だけでなく強い精神力も大きな要素になるかと思います。岡さんのその強い精神力は、どこで培われたのですか?
幼少期の教育が大きな影響を与えているかもしれません。
私の両親は、先天性骨形成不全症を抱える私が将来、自立した社会生活を送れるようにと、決して甘やかすことなく「自分のことは自分でやる」「うまくいかないことを他人や環境のせいに絶対しない」など、愛情をもって厳しく育ててくれました。
私が生まれた当時、両親は我が子に先天性の疾患が見つかり、自分たちを責める毎日だったそうです。しかし、主治医の先生が「この病気は誰のせいでもない。悲しむ前にこの子の将来のことを考えましょう」と言ってくださったことで、前を向くことができたといいます。
結婚後は両親と離れて暮らすようになりましたが、海外遠征中はアパートの空気の入れ替えや郵便物の管理をしてくれるなど、スポーツ好きの両親はずっと私を応援してくれていました。
その両親も昨年、ふたりとも旅立ちました。最後の4~5年は多くの人のサポートを受けながらの生活となりましたが、両親は「どんな環境でも自分次第」といつも言っていました。
ケアマネさんをはじめ、多くの介護スタッフや仲の良い親戚たちに明るく楽しく助けてもらい、私の競技生活への影響も少なかったと思います。両親、そして支えてくださったすべての方に、心から感謝しいています。
岡さんからのメッセージ
最後に、障がいを持つ子どもたちや現在リハビリに励んでいる方たちに向けて、メッセージがあればお願いします。
困難や難題に立ち向かっていくには、十人十色、人それぞれいろいろな形があると思います。
私はこれまで、できることができなくなったり、失ったりした経験がありません。今後もし、どうしようもなく辛く苦しい生活になった時にはどうすればいいのか不安でいっぱいです。
そんな時はきっと、このリハノワで紹介された多くの方たちの思いや活動に力をいただきながら、自分なりの方法で立ち向かっていくと思います。
どんなときも前向きに、パラ卓球を通して新たな道を切り拓き続けてきた岡さん。
岡さんが夢に向かって挑戦し続ける姿は、いまも多くの人々に勇気と希望を与えています。
あたたかいメッセージがとても心に響きました。リハノワの活動にもエールをくださり、とても嬉しく思います。
リハノワはこれからも、岡さんのご活躍を心から応援しています。
本日は貴重なお話をお聞かせいただき、本当にありがとうございました。
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撮影:山本夏希
以上、今回は岡山大学病院のパラスポーツヘルスケア外来に通う、卓球プレイヤーの岡紀彦さんをご紹介しました。
ひとりでも多くの方に、岡さんの素敵な想いと魅力がお届けできれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!
かわむーでした。
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