【当事者の声】「自立した暮らし」をあきらめない。車いす住宅アドバイザー・横山和也さんの挑戦

みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!

今回は、大阪府を拠点に車いす住宅アドバイザーとして活躍している、横山和也さんにお話を伺いました。

横山さんは、交通事故による頸髄(C5)損傷で車いす生活となったことをきっかけに、住まいの大切さを痛感。現在は、ご自身の経験を活かしながら、障害のある方が安心して暮らせる住環境づくりをサポートされています。

この記事では、事故当時の体験やリハビリの日々に触れながら、「自分らしさ」を軸に、一歩ずつ道を切り拓いてきた横山さんの歩みをご紹介します。

受傷当時の体験を振り返って

横山 和也(よこやま・かずや)さん
1984年、大阪府箕面市出身。2010年、旅行中の転落事故により頚髄(C5)を損傷し、車いすユーザーとなる。1年9ヶ月の入院生活を経て、退院と同時に一人暮らしを始める。障害があっても自立して暮らすための情報が少ないことに課題を感じ、その解決をライフワークに掲げる。以来、教育機関やイベントでの講演活動、テレビ出演、オウンドメディアの立ち上げ・運営などを通じて情報発信に取り組む。現在は「車いす住宅アドバイザー」として、住まいづくりや暮らしのサポートに力を注ぐ。


かわむー
かわむー

横山さんが大きな事故をきっかけに、車いすでの生活が始まったのは、20代半ばだったと伺いました。

受傷当時の状況や入院生活、そしてリハビリテーションに取り組まれた日々について、覚えている範囲でお聞かせいただけますか。


横山さん
横山さん

事故の当日は、ボランティア仲間10名ほどで、京都・京丹後にある海の見える高台のコテージへ出かけていました。BBQスペースにお酒を持ち込み、にぎやかに過ごしていたと記憶しています。

夜、外で友人とお酒を飲みながら語り合っていたときのことです。コテージは道路より3〜4メートルほど高い位置にあったのですが、そこから誤って転落してしまったんです。記憶は定かではありませんが、おそらく端に腰かけ、足をぶらぶらさせていたのだと思います。一緒に落ちた友人は軽い脳震盪で済みましたが、私は落ちた先の側溝にはまり、頭や首を強く打ちつけてしまいました。

なかなか戻らない私たちを心配した仲間が見つけてくれ、救急車で京都の病院へ。その後、治療が難しいとの判断で大阪の大学病院までドクターヘリで搬送されました。ヘリの中で、「コード・ブルーやん、やまぴーやん」と、二日酔いのような気持ち悪さの中ぼんやり思ったことを覚えています。

病院に着いたときは、「なんとなく身体が動かないな…」と感じつつも、気持ち悪さで動かしたくない思いの方が勝っていました。友人に「立て膝を直してほしい」と頼んだとき、実際には膝はまっすぐ伸びていて、感覚と現実が違っていることに気づきました。その時点で、すでに麻痺は出ていたのだと思います。

診断は、第5頸椎の粉砕骨折。受傷から3日後、首の骨を固定する手術を受けました。


かわむー
かわむー

少しずつ動かしづらい部分が増えていく中で、横山さんの中にもきっとさまざまな思いがあったことと思います。当時の心境や、支えてくれた方とのやりとりについて、お話しいただけますか。


横山さん
横山さん

思うように手足が動かないことに気がつき、「これは、二日酔いじゃないな。ああ、もう終わったな」と感じていました。

そんな中、手術の前日に担当の先生が病室に来て、僕のいまの身体の状況を丁寧に説明してくれました。歩けなくなる可能性や寝たきりになる可能性も、正直にすべて話してくれたんです。

説明の最後に「質問はあるか?」と聞かれたとき、とっさに口から出たのは、「治る可能性は何パーセントですか?」という言葉でした。

受傷前は大学で研究員をしていたこともあり、つい「なにか質問しなくちゃ」と思っただけで、もちろん答えは「0」だろうと思っていました。

ところが先生は、「5%くらいちゃうかな?」と答えたんです。思わず、「えっ、5!? 5%もあるんですか!」と、僕は聞き返しました。

当時はiPS細胞こそありませんでしたが、再生医療の研究は進んでいて、「もしかしたら…」という希望がふっと心に灯った瞬間でした。0は何をかけても0ですが、5は努力次第で10にも、100にも近づく可能性がある。そう思うと、「やるしかない」という気持ちに切り替わりました。

それまでの僕は、研究職に就きながらも人生の目標をもてず、努力が必要だと分かっていても、ギャンブルやお酒、遊びに時間を使い、自信のないまま過ごしていました。しかし、この怪我をきっかけに、人生が180度変わったんです。「変われるきっかけ」が目の前に現れたような感覚でした。先生がすべてを話してくれたことで、自分の中に明確な目標が生まれ、「落ち込んでいる暇なんてない。今このチャンスを逃したらもったいない」と思えたのです。


自分らしく歩むリハビリ

かわむー
かわむー

0が5になったことで可能性が広がったというお話や、「落ち込んでいる暇はない」とすぐに前を向かれた姿勢に、とても力強さを感じました。

手術後から取り組まれたリハビリテーションについても、ぜひ教えていただけますか。


横山さん
横山さん

手術後は人工呼吸器の管が外せず、自分で痰も出せない苦しさが続き、「もう気管切開してください」とお願いしたほどでした。

リハビリが始められたのは、気管切開をしてからです。そこで僕は、3つの目標を立てました。

1つ目は、自発呼吸ができるようになること。2つ目は、上半身をもっと動かせるようにすること。3つ目は、下半身も動かせるようになって、できれば歩くこと。

ICUでの最初の課題は、自発呼吸でした。呼気量の目安を教わり、人工呼吸器の数値を見ながら吸って吐く練習を繰り返しました。窓のないICUには機械音が響き、寝たきりで体内時計も乱れがちでしたが、看護師さんの優しさに支えられ、思ったより穏やかに過ごすことができました。

面会は1日30分。友人たちが次々に訪れてくれるのが、大きな励みでした。声が出せない僕のために、文字盤とまばたきで意思を伝える方法を考えてくれたのも友人です。通じた瞬間の喜び、通じなくても話が思わぬ方向に転がっていく面白さ。外の空気を運んでくれるこの時間は、何よりの楽しみでした。自分の話ばかりして帰っていく友人に、心の中で「お前の話はもうええねん!」とツッコミを入れながら、その存在のありがたさを噛みしめていました。

約3週間のICU生活を経て、自発呼吸が安定したタイミングで、脊髄損傷の専門的なリハビリが受けられる病院へ転院しました。到着すると、「よぉきたな」と院長先生が笑顔で迎えてくれたのを覚えています。

転院から約1か月で人工呼吸器を外すことに成功。喉の穴もふさがり、声が出せて、食事も口からとれるようになり、ますますリハビリに力を注げるようになっていきました。


かわむー
かわむー

私自身、ICUで呼吸のリハビリを専門にしていた経験があるので、横山さんのお話は情景が目に浮かぶようでした。人工呼吸器をつけたうえで、呼吸の自主練習に取り組まれていたこと、本当に素晴らしいですね。

1つ目の目標だった「自発呼吸」を達成されたあとは、次なる目標に向けて、どのように練習を進められたのでしょうか。


横山さん
横山さん

リハビリは理学療法(PT)と作業療法(OT)に取り組みました。

PTでは、まず血圧を安定させながら、ベッドから頭を上げる、車いすに座るといった「離床」からスタート。痙性が強く、背中が反って倒れてしまうこともありましたが、支えてもらいながら少しずつ座れる時間を延ばしていきました。

院長先生から「障害者団体の交流イベントに行こう」と声をかけてもらい、まずはリクライニング車いすで2時間座れることを目標に練習。受傷から3ヵ月後、医療スタッフに付き添われ、初めて外出しました。イベント後は疲れ果てて介護タクシーで寝て帰りましたが、それは大きな一歩でした。

その後は、車いすの漕ぎ方、寝返り、移乗など、基本動作の練習を積み重ねていきます。半年ほど経ち、ある程度座れるようになった頃、ターニングポイントが訪れました。

車いすとベッドの「横移乗」について主治医の先生に相談したとき、「この入院中は難しい」とはっきり言われたんです。PTさんからも、ほとんど同じ答えが返ってきました。

そこで僕は思いました。「じゃあ、道具を使えばいい」と。退院後、1日2時間も移乗に費やすより、リフターを使えば良い。その分、いまはできることを伸ばすほうが現実的だと気づきました。

そこからはADL(基本的な日常動作)よりも、QOL(生活の質)向上に軸足を移すことに。「ADLは急性期にそっと置いてきた」とよく話すのですが、その日からプッシュアップの練習はなくし、肩の可動域を広げたり、体幹を鍛えたりする練習に切り替えました。目標は、24時間座っていられる身体づくりや車いすを効率よく漕ぐこと。病院のスロープで坂道練習をしたり、リハビリ時間外も院内を漕ぎ回ったりして体力をつけていきました。



横山さん
横山さん

OTは、入院から1年ほど経ってスタートしました。上着の着脱やお箸の操作、名刺交換、ビールをジョッキで飲む練習など、生活や仕事に直結する動作が中心です。ゲームを楽しむためにジョイスティック付きコントローラーを導入し、操作練習をしたこともありました。

ちょうどその頃、病院の向かいのマンションを改装し、一人暮らしを始める計画が動き出します。約9ヵ月かけて準備を進め、リハビリの合間にOTさんと現地へ行って家具の配置や生活動線を確認。横断歩道を時間内に渡れるか試したり、外泊して「手が必要な場面」と「不要な場面」を洗い出したりしました。

ヘルパー体制も整え、受傷から1年9ヵ月後、退院と同時に初めての一人暮らしがスタート。退院後も外来でPTを継続し、ストレッチやコンディショニングで身体を整えながら、少しずつ自宅生活に馴染んでいきました。


退院後、人生を切り拓く

かわむー
かわむー

退院と同時に、初めての一人暮らしを始められたのですね! 行動力に驚きました。

受傷前は大学で研究員としてお仕事をされていたとのことですが、退院後はどのような形で社会復帰に向かわれたのでしょうか。


横山さん
横山さん

退院後は、家業の手伝いやボランティア活動に力を注ぎました。家業はパソコン作業が中心で、チラシ作成やホームページ管理、経理など。入院中から少しずつパソコンに触れていたこともあり、自然に仕事へとつなげられました。

ボランティアでは、異業種交流の「ロータリークラブ」青年部に所属し、月2回の定例会や献血の呼び込み、チャリティバザーの企画運営などを担当。会長も務め、リーダーシップや企画力を磨きながら、人とのつながりを広げました。本来は支えられる側かもしれませんが、支える側として関わる経験は、大きな糧になったと感じています。

さらに、研究職を離れ、「せっかく車いすになったのだから、自分にしかできないことをしたい」という思いも芽生えてきました。もがきながら辿り着いたのは、「情報発信」でした。福祉用具や暮らしの工夫など、なかなか得られない情報を外に出すことに、価値を見い出したのです。

最初はタッチペンでiPadに入力し、アメブロに自身の経験を投稿。しかし、活動を続ける中で「もっと幅広く障害を捉えていけるようにしたい」と感じ、頸髄損傷に限らずさまざまな障害のある方に寄稿してもらえるWebサイト「Be HAPPY」を立ち上げました。

知人の協力でホームページを作り、クラウドファンディングにも挑戦。コロナや家庭の事情で一時活動は縮小しましたが、「障害のある方の暮らしを支える」という軸は変わりません。



かわむー
かわむー

仕事や社会活動、そしてご自身で立ち上げたメディアでの情報発信と、横山さんが次々に活動の場を広げてこられた姿は、本当に力強く、素晴らしいなと感じました。

こうした退院後の挑戦は、お仕事や発信にとどまらず、人生の大きな節目へもつながっていったとうかがっています。結婚や育児というライフイベントについても、ぜひお話しいただけますか。


横山さん
横山さん

退院してから約1年後の2013年、作業療法士として僕のリハビリを担当してくれていた方と結婚しました。僕ができることも、できないことも受け止めてくれる安心感が、何より大きな支えになりました。

子どものことについては、付き合い始めた頃から話題にしており、年齢のこともあって早めに不妊治療を開始しました。顕微授精を選び、結婚の翌年である2014年に、長女が誕生しました。お風呂に入れたり、あやし方を工夫したり、できることには全力で向き合ってきました。

現在、娘は10歳。僕が車いすでも、「鬼ごっこしよ!」と誘ってきます。簡単に捕まってしまうので「帽子を取ったら鬼交代」などオリジナルのルールを作りながら、一緒に楽しんでいます。コロナ禍では2人で1000ピースのパズルに挑戦し、見事完成させました。もちろん、高い高いやアスレチックは難しいですが、そのときは友達親子や妻に託し、自分にできる方法で一緒に過ごすようにしています。

娘は困っている人に自然と手を差し伸べられる人に育っていて、その姿をとても誇らしく思います。これからも、お互いに無理なく支え合える関係を大切にしていきたいです。



暮らしを支える新たな挑戦

かわむー
かわむー

退院後はお仕事やプライベートなど、さまざまな面で挑戦を続けてこられた横山さんですが、現在は「車いす住宅アドバイザー」という新たな分野にも取り組まれているそうですね。

そのお仕事について、始められたきっかけも含めてお聞かせいただけますか。


横山さん
横山さん

2019年、30歳を過ぎた頃のことです。ロータリークラブを通じて、大阪の不動産会社の会長さんと出会い、一緒に活動するようになりました。若い頃からご縁はあったものの、実際に仕事をともにするのは初めて。大阪の「バリアフリー展」に一緒に行ったことが、大きな転機となりました。

会長さんにとって障害者の世界を間近に見るのは初めてのこと。立位にもなれてフルフラットにもできる、300万円ほどの最新車いすを来場者が目を輝かせて見つめ、格好よく乗りこなす姿に驚き、「ここには大きな可能性がある」と感じられたそうです。

それをきっかけに、同年「WADACHI」プロジェクトがスタートしました。これは、車いすユーザー専用のモデルルームを展開する取り組みです。僕にとって、車いすは常にバランスボールに乗っているような感覚であり、自宅でくつろげる空間や自分に合った環境づくりがいかに大切かをお話ししたことから、プロジェクトが立ち上がりました。

2022年には事業として本格始動し、「障害当事者 × 不動産」という新しい挑戦が始まりました。現在は「車いす住宅アドバイザー」として事業部を率い、賃貸や売買、改修、さらには福祉用具の提案まで、幅広い仕事を担っています。


車いすユーザー専用のモデルルーム「WADACHI」
WADACHIに関する詳しい情報は、別の記事で紹介しています。ぜひ、そちらもご覧ください(本記事下部にURLあり)


横山さん
横山さん

僕の仕事は、まず丁寧なヒアリングから始まります。身体の状態や生活の状況を詳しく伺い、とくにトイレやお風呂といった生活の要となる場面については、導尿の有無や排便方法、車いすの動線、移乗の可否、車両の種類まで細かく確認します。同居されているご家族の状況やサポート体制も重要なポイントです。

こうした情報をもとに、賃貸住宅の仲介、リノベーション、注文住宅、中古マンション購入+リノベーションなど、お客様の希望にあわせて最適な形を提案します。

賃貸の場合は必ず現地を訪れ、実際に車いすで移動できるかどうかを自分の目で確認します。情報サイトでは分からない段差や狭さなど、暮らしに影響する問題が見つかることも少なくありません。オーナーが車いすでの入居に消極的な場合は、交渉も行います。

注文住宅の場合は「WADACHI」に宿泊してもらい、実際の動線や設備を体感してもらいます。また、物件探しにとどまらず、防災や福祉サービス、ヘルパー利用の相談など、暮らし全体を見据えた提案も行っています。相談員さんと一緒に来られる方も多く、一緒に「生活の形」をつくっていく感覚です。

これまでには、中古マンションの購入から浴室改修や動線づくりまで伴走した事例もあります。現在は賃貸仲介が中心ですが、これからはリノベーション案件をもっと増やしていきたいと考えています。


かわむー
かわむー

WADACHIを訪れることで、「これは必要」「これは自分には合わない」と比べながら、自分らしい暮らしの形を描けるのは本当に素敵ですね。こうした新しいスタイルが、もっと多くの方に広がっていってほしいと思いました。



当事者視点がひらく不動産の未来

かわむー
かわむー

横山さんがこれから取り組んでみたいことや、さらに広げていきたい活動があれば、ぜひお聞かせください。


横山さん
横山さん

車いすユーザーにとって、賃貸住宅を探すことはとても大きなハードルです。大阪市内に1万件の物件があっても、実際に案内できるのは2〜3件ほど。工事も難しく、もちろん車椅子専用の物件などありません。

この現状を変えるため、いま、会長と「車いす対応の賃貸マンション」をつくる計画を進めています。まず大阪に1棟。そこを足がかりに、将来的には注文住宅や分譲改修へとつなげていきたいと考えています。

「車いすだから」と断られる現実はありますが、利回りが確保できれば話は変わります。「快適に住める」とわかれば、多少高くても選ばれます。僕は、車椅子の人が快適に過ごせる住環境を整えることが、不動産業界全体を動かす力になると信じています。

そのためにも、まずはこの取り組みを多くの方に知っていただき、注文住宅やリノベーションで実績を積み重ねていくことが大切です。

住宅は人生の大きな買い物。その瞬間に立ち会い、同じ車いすユーザーの力になれる存在でありたい。その方の人生の1ページに寄り添えたら、これ以上の喜びはありません。


リハビリに励む方へメッセージ

かわむー
かわむー

最後に、同じようにリハビリに励んでいる方々に向けて、メッセージがあればお願いします。


横山さん
横山さん

僕は、リハビリは、ただがむしゃらに頑張るのではなく、「自分の方向性」をもって取り組むことが大切だと考えています。

人それぞれ目指す場所が違うからこそ、「何をしたいか」「どう生きたいか」に合わせて内容を変えていけばいいい。言われたことをただこなすだけでなく、自分の目標を大切にしてほしいです。僕自身も、小さな目標を積み重ねながら続けてきました。

体調によってできることは限られますが、その時々で、意味のある時間にしていければ大丈夫。担当のリハビリスタッフの方とたくさん話しながら、自分に合った練習を見つけていってください。僕も、先生の一言をきっかけに、取り組み方が大きく変わりました。

また、受傷当初に「家族を頼りすぎるな」という言葉をもらいました。家族の人生を変えてしまうほど頼るのではなく、まずは第三者、次に周囲、そして最後の奥の手として家族に頼る。その順番を意識してきたからこそ、退院後すぐに一人暮らしにも挑戦できたのだと思います。逃げ場があると感じられたことで、思い切ったチャレンジができました。

僕はいま、障害のある方が安心して暮らしや仕事に向き合えるよう、支えていきたいと強く思っています。住まいでも働く場でも、困っている方が「やってみよう」と一歩を踏み出せるように、その背中をそっと押せる存在でありたい。なにか困ることなどあれば、まずは気軽に相談してもらえたらと思っています。


かわむー
かわむー

横山さん、心に響くあたたかいメッセージをありがとうございました。

「何をしたいか」「どう生きたいか」と向き合うことは、障害の有無にかかわらず、決してたやすいことではありません。でも、事故をきっかけにそこに真摯に向き合い続け、日々変化する環境や自分自身を受け入れながら歩んでこられた横山さんの姿は、とてもかっこいいなと感じました。

個人的には、手術の前日に「5%もある」「やるしかない」と気持ちを切り替えたエピソードが、とても印象的でした。目の前の出来事は、捉え方ひとつで大きく変わる。そのことを改めて実感する機会となりました。大切な気づきをくださり、ありがとうございます。

横山さんの言葉は、障害のある方もない方も、多くの方の背中を優しく押してくれたことと思います。

リハノワはこれからも、横山さんのさらなるご活躍を心から応援してます。

本日は、貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。



かわむー
かわむー

<関連記事 / SNS>

リハノワ記事「WADACHI 紹介」
Instagram(横山和也さん)
Instagram(WADACHI)
WADACHI 公式ホームページ

ぜひ合わせてご覧ください。


◆ 施設情報
施設名:WADACHI
住所
:〒552-0021 大阪府大阪市港区築港2丁目8-30
電話:06-6777-3695
アクセス:大阪メトロ中央線「大阪港駅」①番出口より車いすで5分
営業日:
10:00~19:00 ※年中無休・完全予約制
受付時間:9:00~17:00(定休日 土日祝)

以上、大阪府を拠点に車いす住宅アドバイザーとして活躍する、横山和也さんをご紹介しました。

ひとりでも多くの方に、横山さんの素敵な想いと魅力がお届けできれば幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!


かわむーでした。

この記事は、パートナー企業様個人サポーター様、読者の皆さまの応援のもと、お届けいたしました。なお、本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

※取材先や取材内容はリハノワ独自の基準で選定しています。リンク先の企業と記事に直接の関わりはありません。

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