【当事者の声】旗ふる勇者は馬鹿でいい。4年間の入退院生活を乗り越え見えた世界|大熊充さん

みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!

今回は、25歳で交通事故による大怪我を経験するも、現在は福岡県うきは市でばあちゃん食堂を経営する社会起業家として活躍されている「みっちゃん」こと大熊充さんをご紹介します。

当時のリハビリの様子や原動力となったこと、また、みっちゃんの再起のストーリや今後に思い描くことなど、その魅力にとことん迫っていきたいと思います!

みっちゃんの歩み

◆ 大熊 充(おおくま・みつる)さん
うきはの宝株式会社代表取締役/デザイナー
愛称:みっちゃん

<みっちゃんの歩み>
1980年福岡県うきは市出身。公務員家系に生まれ、両親と兄・妹に囲まれ幼少期を送る。24歳で自動車整備学校へ進学。25歳の時、整備工場への通勤途中で交通事故に遭い、頭部外傷や鎖骨粉砕骨折を受傷。4度にわたる手術とリハビリのため4年間入退院を繰り返す。29歳で独立し、デザイン事務所を経営。2019年入院時の経験がきっかけとなり、75歳以上のおばあちゃんたちが生きがいと収入を得れる会社「うきはの宝株式会社」を設立、代表取締役に就任。2020年「ばあちゃん食堂」開店。

交通事故の大怪我で

かわむー
かわむー

現在、75歳以上のおばあちゃんたちが働く会社「うきはの宝株式会社」を経営されているみっちゃんですが、起業のきっかけは20代の頃の大怪我がきっかけとなっているようですね。

お怪我をされリハビリに励まれた当時の状況を、可能な範囲で教えていただいてもよろしいでしょうか。


みっちゃん
みっちゃん

人生最大の大怪我は25歳の時です。しかし、僕は幼少期からとにかく頻繁に交通事故にあっていました。

小学生の頃は毎年といっていいほどバイクや車と接触する事故に遭遇。15歳の頃にあった自転車対自動車の事故では、意識を失い1週間くらい入院したのを覚えています。大人になってからも新車を大破させるような事故を起こしていました。

そんなことから、2年前、知人の勧めで病院を受診します。すると専門の医師から発達障害(ADHD)の診断を受けました。

注意力が散漫なのはそのせいもあったのだと気が付きました。以後、自分でも注意しながら日々の生活を送っています。



かわむー
かわむー

大人になってから診断を受ける方は多くいると伺います。子どもの頃からそんなにも交通事故にあっていたとは、驚きました。


みっちゃん
みっちゃん

昔から忘れっぽいとか、人が言う「普通」とういうのが分からなくて、生きづらさを感じていました。 それが原因となり中学時代は不登校に。それでも勉強は割と嫌いではなかったので、 高校は地元の進学校に入学しました。

しかし、高校でも先生に「社会不適合者」や「邪魔だ」と言われたことがきっかけとなり不満が募り、 自主退学を選択。その後は、17~25歳まで大阪や東北、九州など全国を転々としました。



そして、25歳の時、通勤途中にバイクによる自損事故を起こします。

頚椎捻挫や右鎖骨粉砕、外傷性くも膜下・言語障害など、全身を怪我しました。


かわむー
かわむー

怪我をされた原因はバイク事故だったのですね。全身を怪我されていることから、当時の事故の大きさが伺えます。

病院に運ばれた後は、どんな処置や治療、リハビリを受けられたのですか?


みっちゃん
みっちゃん

首や頭は安静にということで、特に大きな治療はしませんでした。大変だったのは利き手側の鎖骨の粉砕骨折です。

粉々となった鎖骨を固定するための手術をし、その後数ヶ月間は腕のリハビリをしました。そして、一度は退院に。しかし、数ヶ月してまた砕けてしまい再び手術が必要となったのです。

どうやら僕は、骨がくっつきづらい病気にもなってしまったようで、大きな病院に移り手術をすることになりました。待機期間は3〜4ヶ月、その間は三角巾のため片腕での生活です。非利き手しか使えないのは、とにかく不便で仕方ありませんでした。

その後、2回目の手術を受けたのですが骨がうまく固定できず、3回目、4回目と手術を追加で受けることとなります。さらに、1回の手術の間は半年以上あけなければならないとのことで、その間はひたすらリハビリをしながら手術が出来る日を待つのです。

リハビリの内容としては、理学療法士や作業療法士の先生と一緒に右手や肘、肩をゆっくりと動かす練習を中心に行いました。また、手術は骨盤から骨を採取していたので、術後は車椅子です。骨盤の痛みに合わせながら、ゆっくりと動いていきました。

4回目の手術後はすぐに退院し、外来で肩のリハビリを継続。術後は握力が5kg程度しかなく、また、20kg以上の物を持ってはいけないという指示もあったので、リハビリの先生と一緒に少しずつ練習していきました。

腕が良くなる頃には、受傷から4年ほど経過していたと思います。今でも右肩の挙げづらさはありますが、なんとか日常生活は送れている状況です。


孤立という恐怖

かわむー
かわむー

当時、入退院を繰り返しながら手術・リハビリ生活を送られたかと思いますが、その中で特に辛いと感じたのはどんな時だったでしょうか。

また、その中で励みになったことがあれば教えて下さい。


みっちゃん
みっちゃん

手術をしてもいつまで経っても治らないし、医師も「もう諦めよう」とか言うこともあったし、手術後も「また粉々になったらどうしよう…」という不安が常に頭をよぎっていたので、それが辛かったです。仕事に対する不安もありましたね。

2回目の手術まではリハビリも張り切ってやれていましたが、その後はなかなか良くならない現状に嫌気が差し、やる気が消失。1日中ぼーっとして過ごすようになり、安定剤睡眠導入剤などを飲むようになりました。

友達も入院して3ヶ月くらいすると頻回には来なくなるため、長期間に及んで誰とも合わず、社会からどんどん孤立していく感じがするんです。

孤立し続けると、人間って不思議と自殺願望が出てくるんですね。なので、一人でいると危ないということで、僕はいつもNsステーションで見守られていました。その時、同じようにNsステーションにいたのがばあちゃん達です。そこには認知症の方もいました。

そのばあちゃんは毎日同じことを聞いてくるのですが、それが次第に僕の心の癒やしになっていきました。


かわむー
かわむー

当時されていた整備の仕事では手を使うことが必須だと思うので、仕事に対する不安はかなり大きかったことが伺えます。

様々なことに対する不安、さらには入院という物理的にも社会から孤立している状況。とても辛かったことでしょうね…。

一緒に入院されていたばあちゃんが心の癒やしや励みとなっていたようですが、当時、みっちゃんがリハビリの目標とされていたことは何だったのでしょうか。


みっちゃん
みっちゃん

とにかく「退院する」こと。そして、「完治する」こと、というのが目標でした。

また、入院中も精神状態が落ち着き元気になってからは、今後整備の仕事に戻れない可能性があったので、FP(ファイナンシャルプランナー)の勉強を始めました。4年間の入退院を通して保険には随分お世話になったので、その関係で恩返しをしたいと思うようになったのです。

FPとして再就職する」というのが新たな目標に加わり、日々勉強に励みました。


ばあちゃんへの恩返し

かわむー
かわむー

4度目の手術が無事に成功し退院されてからは、どのような生活を送られたのですか。


みっちゃん
みっちゃん

退院後は、外来のリハビリに1年くらい通いました。一時は右腕を諦めようと精神的にしんどい時期もありましたが、退院し外に出ると次第に元気になり、リハビリの意欲も出てきました。

しかし、入院中に勉強していたFPの仕事は、希望する会社の3次試験までいくも結局不合格。20社以上の面接を受けても全て受かりませんでした。

僕は、社会の誰にも必要とされないのではないかと再び挫折を味わいます。そんな経験から、僕は一人でやっていこう!と、独立することを決意しました。

はじめは、金属の装飾品や楽器の部品、バイクの部品などを手作りし売ることに。商品がどのようにしたら売れるのか、マーケティングを実践的に学んでいきました。

独学でホームページ制作やECサイトを立ち上げ、徐々に事業は成長。そのような経験や実績から、デザインの方の依頼も増えてきて、最終的には、広告・デザイン、企業のブランディングなどを行うデザイン事務所として仕事をするようになりました。

世の中の人に必要とされることに、当時はとても喜びを感じていました。



かわむー
かわむー

デザイン事務所として成功されたみっちゃんが、なぜ、ばあちゃんに焦点をあてた会社を立ち上げられたのでしょうか。方向転換されることとなったきっかけを教えて下さい。


みっちゃん
みっちゃん

デザインの道で12年働いてきたある日、「このまま70歳くらいまで、ずっとこの仕事を続けるのだろうか」とふと考えることがあったのです。その時、何故かとても虚しくなりました。

受注する仕事はほとんどが企業さんからの間接的な下請けの仕事も多く、やりがいというものを見い出せなくなってきていました。僕は、今後の人生、誰かの笑顔を直接みれる仕事がしたい社会課題に向き合う取り組みがしたいと強く感じるようになります。

そして最終的には、入院していた時に僕を励まし続けてくれた「ばあちゃん」に恩返ししたいと行き着いたのです。


かわむー
かわむー

入院中に孤立し、辛い状況の時に話しかけてくれた、あの「ばあちゃん」でしょうか。


みっちゃん
みっちゃん

そうです。入院中、廃人となっていた僕に毎日ずっと話しかけてきてくれた、あのばあちゃん達です。

当時、「なんで怪我しとっとよ」と聞いてきて、僕が説明するのに毎日同じことを聞いてくるので、最初のうちは完全無視していました。しかし、1週間くらい毎日聞いて来られると、いくらなんでもしつこすぎだろう!って、笑えてきたんですよね。

当時の僕は、自己嫌悪に陥り、人生終わったと思い毎日嘆いていました。いき場がなく、自分を攻め、人と関わりたくないと選択的に孤立していました。まさに、悲劇のヒロイン状態です。

そんな僕を、その時のばあちゃん達は優しく包み込んでくれ、闇から出てこいって導いてくれたんです。

Nsステーションに集まるばあちゃんは何人かいましたが、ある日、その中の1人が来ていませんでした。「ばあちゃん、今日はこないの?」と看護師さんに聞くと、亡くなったことを知らされました。

僕は、自分がちっぽけなことで悩んでいたことに気が付きました。2〜3日前まで優しく声をかけてくれていたばあちゃんは、実は死が間近だったのです。そんな人が最後まで自分に関わってくれていたことを考えると、自分はなんて小さなことで悩んでいるのだとちっぽけに思えました。

手がちょっと悪いくらいで、僕は死ぬわけではない。「生きよう!」と、とても生へのパワーが漲ってきました。



みっちゃん
みっちゃん

前向きにやっていこうと思えたのは、当時のばあちゃん達のおかげです。

しばらくすると、僕も精神状態が落ちつきNsステーションには行かなくなりました。しかし、当時のおばあちゃんの顔は今でもずっと覚えています。

超高齢化地域で20代~80代までの多世代が協力して働く「多世代型協働」で、地方の田舎を元気にするモデルケースを福岡県うきは市で作る。ひいてはそれが、超高齢化に苦しむ日本の他の過疎地域までを救う。

そんな想いを胸に、ばあちゃんたちと地域の若者がつくる「うきはの宝 株式会社」を2019年に設立しました。

僕は、当時助けてくれたばあちゃん達の得意と特性を活かし、ばあちゃんのやりたいことをサポートすれば、きっとみんなが感動・必要とする「モノ」ができることを確信しています。

勇者はバカでいい。旗をぶんぶん振れば、優秀な人が集まるから

ばあちゃん達に恩返したいいと起業を考えた時、こんな言葉をある方からいただきました。

ばあちゃん達が働くことで生きがいと収入を得て、ばあちゃん達の知財を若い世代へ伝承する仕組を作ることが、僕の使命だ。

僕はこの言葉を胸に、今日も前だけをみて進んでいます。


かわむー
かわむー

人の命の長さは誰にも分からない。ただ、どう生きるかという「生き方」は自分自身で決めることが出来る。

そんな強いメッセージを、みっちゃんのお話を伺いながら感じました。「生きるということを問う」という、最強の未来志向のみっちゃんの今後がとても楽しみです。

みっちゃん、本日は貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。

みっちゃん、そしてばあちゃん食堂の皆様のますますのご活躍を心より応援しております!




かわむー
かわむー

<みっちゃっん関連情報・SNS

・うきはの宝株式会社_HP

・公式オンラインSHOP
・みっちゃん_Twitter


ぜひ合わせてご覧ください。



以上、本日は25歳で交通事故による大怪我を経験するも、現在は福岡県うきは市でばあちゃん食堂を経営する社会起業家として活躍されている「みっちゃん」こと大熊充さんを紹介させていただきました。


一人でも多くの方に、みっちゃんの素敵な想いがお届けできれば幸いです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!


かわむーでした。




この取材は、本人の同意を得て行なっています。本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒宜しくお願い申し上げます。

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