【当事者の声】片麻痺のBARマスター。日本酒立ち呑みbar丸に立ち続ける想い|丸山敬三さん

みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!

今回は、40歳で脳出血を発症するも、日本酒立ち呑みbar 丸のマスターとしてカウンターに立ち続ける「丸山敬三さん」をご紹介します。

当時のリハビリの様子や原動力、また、丸山さんがお店にかける熱い想いや今後挑戦したいことなど、その魅力にとことん迫っていきたいと思います!

丸山敬三さんの歩み

◆ 丸山敬三(まるやま・けいぞう)さん
1975年 広島県出身
職業:日本酒専門BARのマスター(2014年開店)

<丸山さんとリハビリ>
2016年2月
夕方お店の2階で倒れているの発見され、救急搬送。脳出血の診断で同日手術

術後2〜3目
リハビリ開始(PT、OT)

術後2〜3週間

リハビリ専門病院へ転院

術後6ヶ月

自宅へ退院。週1回の外来リハビリと自主歩行練習を継続

術後8ヶ月
お店の営業再開

孤独やリハビリと闘う日々

かわむー
かわむー

2014年に自身のお店「日本酒立ち呑みbar 丸」を開店された丸山さんですが、脳出血発症当時もお店にいらっしゃったのですね。


丸山さん
丸山さん

開店して以来、ほとんど休むことなく働いていました。

倒れた当日は、常連さんに頼まれて朝から誕生日の特別メニューを作っていました。お昼に約束をしていたのですが、時間になってもこない僕を心配した常連さんが、隣のお店の人に相談し、夕方窓を破って入ってくれました。

僕は、お店の2階でひとり倒れていたそうです。当時の記憶はなく、救急車ですぐに病院に運ばれましたことを後から聞きました。

病院に到着し、脳出血を発症していたことが判明。その日のうちに手術となります。


かわむー
かわむー

手術が終わった後の入院生活やリハビリは、どんな様子だったか覚えていらっしゃいますか。


丸山さん
丸山さん

意識が戻ったのがいつだったかは覚えてないです。ただ、手術が終わってベッドで寝ているときに「身体の右側が重い、何だこれ…」って思ったのは覚えています。あと、自分で足をおろして勝手に座っていたら、看護師さんが飛んできてものすごく怒られたのも覚えています(笑)

病気になってすぐの頃は、本当に死にたいくらい辛かったです。脳の左側が障害されたため、右側の手足や体幹に麻痺がでました。言語の障害はそんなになかったものの、この辛さを吐き出すことができず、自分と周りの人、社会との距離をものすごく感じました

手術が終わって数日後、理学療法(PT)と作業療法(OT)のリハビリが開始。PTでは麻痺した足に長下肢装具(膝と足の動きをコントロールする装具)をつけて歩行練習を、OTではペグ(色分けされた棒)を使って動かない右手を使う練習をしました。

どんどん歩けるようになり自身で進歩も感じられたため、足のリハビリは好きでした。一方で、動かない右手をひたすら使う手の練習はとても辛かったです。何度やっても全然うまくできず、右手を使うことは無駄だとさえ思うようになっていました。

その後、手術から2〜3週間たった頃、リハビリ専門の病院へ移ることになります。


かわむー
かわむー

手術後、辛い想いを抱えながらも、丸山さん持ち前の明るさで一生懸命リハビリに取り組まれている姿が目に浮かびました。

転院後、リハビリ専門の病院ではどのような入院生活を送られたのですか。


丸山さん
丸山さん

朝から晩までリハビリ漬けの毎日でした。それが、約半年間続きます。

1日2〜3時間はリハビリの先生と一緒に、その他の空き時間は一人でひたすら歩き続けました。歩行の時に使う装具は長下肢から短下肢に変わり、順調に上達していきました。

当時、僕は「病院の中でどれだけ歩けても、本番は退院してからだ」と思っていました。病院と外の世界は全然違うじゃないですか。だからせめて、退院後、本当の意味のリハビリが始まる時に備えて、体力や筋力だけは落とさないようにと頑張っていました。

また、どんな時も常に楽しくありたいというのが僕のモットーなので、当時のリハビリの目標は「スキップすること」と皆に宣言していました。

もともと脳出血になる前から、気持ちを上げるときにはスキップするのが習慣だったので、また出来るようになりたいなと思ったのがきっかけです。無茶ゆうな〜と思われていたかもしれませんが、みんな温かく応援してくれていました。

そして退院後、ついに本当の意味でのリハビリが始まります。やはり、病院でどれだけ歩けていても、実際の道を歩くのとでは全然違いました。

2ヶ月後の営業再開に向けて、リハビリに励みます。


こだわりの日本酒とチーズを出す丸山さん。
お店は広島駅から徒歩5分の飲み屋街『エキニシ』にある。

お店の再開を目指して

かわむー
かわむー

お店は立ち呑みbarということもあり、終始立ち仕事で大変かと思います。

お店再開にあたって、退院後はどのようなリハビリを行われたのでしょうか?


丸山さん
丸山さん

まずは、お店に行けるかどうか自宅とお店の間を歩いてみました。本来は10分もかからない距離ですが、最初は短下肢装具と杖を使い30分くらいかかりました。なんとかお店に辿り着き無事に仕事を終えたとしても、自宅に帰れる体力が残っているかが問題です。

退院後は、週1回の外来リハビリに通いながら、とにかく歩くという自主練習で体力づくりを行いました。

そして、2ヶ月後にお店を再開。

倒れる前と比べて僕の体力はかなり減っていました。右半身の感覚が鈍くバランスがとりづらいため最初は立っておくことが精一杯。お客さんの様子やグラスに気を配ったり、立ったまま調理をしたりするのは大変でした。帰宅後、あまりの疲れで家の玄関にあるパイプ椅子で眠ってしまったこともありました。

最初は週に1日、その後は週に2日、3日、5日と次第に営業日を増やしていきました。営業再開当初、店の片付けや送迎を手伝ってくれた常連さんには感謝しています。問題なく一人で全てこなせるようになったのは、営業を再開して1年が経った頃でした。

リハビリ自体は今でも継続しています。週1回の外来リハビリに加え、お店の日は自宅とのお店の往復、休みの日には約2時間歩いています。


右手足に麻痺は残るものの、右足には装具を着用、作業は全て左手で行う。退院直後、30分かけて歩いていた道のりは現在10分未満で歩けるようになった。


かわむー
かわむー

リハビリの本番は退院してからだ、という言葉の通り、退院後も一生懸命リハビリに励まれてたのですね。

丸山さんがこれまでリハビリを頑張ってこられた中で、選択肢が広がり嬉しかったことを教えてください。


丸山さん
丸山さん

そうですね、お店が再開できてお酒を飲んだ瞬間はとても嬉しかったです。

その他でいうと、ジーパンが履けるようになった時はとても嬉しかったですね。片麻痺になってからは、脱ぎ履きのしやすいジャージしか着てなかったんです。トイレに間に合わず漏らしたらどうしよう、って不安があったからです。

リハビリを直向きに続けてきたことで徐々に自分に自信がついていったんでしょうね。そろそろオシャレしたいな、ジーパンが履きたいなと思った時に「俺ならできる」と自然と思えました。

一つのことが出来るようになると、また新たな挑戦をしたくなるもので。次は、髪型をオシャレにしたいとも思うようになりました。片手で洗うが大変なのでずっと坊主でしたが、徐々に髪も伸ばそうかなって思えるようになったんです。

自信がついて徐々にいろんなことにチャレンジしようと思える過程は、まさに真っ暗闇から光を頼りに明るいところへ突き進んでいく感覚でした。


現在では大好きなジーパンを履きお店に立つ。

立ち続けるという“使命感”

かわむー
かわむー

丸山さんのお話から、目に見えない自信がついていく事こそが、リハビリを一生懸命取り組む本当の意味なのではないかと感じました。

丸山さんがリハビリに励む時の原動力になったものや、モチベーションを維持する秘訣があれば教えてください。


丸山さん
丸山さん

自分の場合、モチベーションっていうか、ほぼ使命感でしたね。強制力といったほうが正しいかもしれません。

リハビリ病院に入院中、普段仲良くしているチーズ屋のオーナーが、広島のいろんな酒蔵を回って寄せ書きを集めてくれたんです。その応援メッセージを貰った瞬間、僕は本っっっ当に嬉しかったです。

何としてでも、絶対にお店に戻らなくちゃっ!」って思いました。

また一緒にお酒飲もうね」というチーズ屋のオーナーに、僕は「もちろん!」と答えました。

寄せ書きは、よくよくを見ると会ったことのない酒蔵の人まで書いてくれていました。これは、誰でも貰えるもんじゃないよなと感じました。以降、僕のリハビリ魂にさらに火がつきます。


店内に飾られている当時の寄せ書き
多くの飲食店仲間・酒蔵の方々から寄せられたメッセージ


かわむー
かわむー

退院後は、皆さんと一緒に丸山さんのお店で日本酒を飲まれたことと思いますが、さぞかし美味しかったことでしょうね。その瞬間を思い浮かべただけで、私も嬉しくなります。

お店にかける思いも、少しだけ教えてもらっていいですか。


丸山さん
丸山さん

実は、僕はもともと日本酒ではなくウイスキーの愛好家でした。

昔からやんちゃだった僕は、学生時代にウイスキーに出会います。高校入試の当日は、前日にウイスキーを飲みすぎて二日酔いで登場したという苦い思い出もありましたが(笑)、ウイスキーの世界にどんどんとハマった僕は、本をかけるほどまでに詳しくなりました。

しかし、サラリーマン時代に出会った外国人がきっかけで変わり始めます。たまたま出会ったその方とウイスキーの話で盛り上がっていたところ、ふと日本酒のことを聞かれたんです。その方は、僕がお酒に詳しいから日本酒にも詳しいと思って聞いたのだと思います。

僕は日本酒のことを全く知りませんでした。何も答えられなかったことが悔しくて、以後、日本酒の勉強を始めます。当時20代の後半だったと思いますが、気づいたらすっかりと日本酒の世界に魅了されていました。39歳でサラリーマンをやめ、日本酒専門の立飲みBARを開店しました。

現在は、昨今の新型コロナの影響もあり相当厳しい状況ですが、何とかお店は続けています。開店当初のようにいろんな料理を出すことは出来ませんが、簡単なつまみやこだわりのブルーチーズ、日本酒は出すことができます。いろんな人に日本酒が好きになってもらいたいという想いも変わりません。

僕の人生と言っても過言ではないこの店を、何としてでも守っていきたい一心で立ち続けています。


丸の店内。平素は日本酒好きで賑わう。
お酒はどれも1杯500円。気軽に良いお酒を飲めることで日本酒を好きになってもらいたいという丸山さんの思いが込められている。
こだわりのブルーチーズと日本酒の相性は抜群だ。

メッセージ

かわむー
かわむー

もしも、リハビリを開始した当初の自分に声がかけられるとしたら、どんな言葉を送られますか?

また、同じようにリハビリに励む方へメッセージがあればお願いします。


丸山さん
丸山さん

そうですね、まず、過去の自分に対しては「先は明るいよ、楽しいよって伝えたいですね。

倒れた当時は、全てを奪われて本当に死んでもいいと思っていました。だけど、いろんな人に支えてもらいながらここまでやってきて、今は「これから先も、まだまだできることは多い」と希望を持つことができています。

あれが出来ん、これが出来んというのは当然あるけれど、それなりに頑張っていたら “これはできるかも” ってそのうち思えてきます。だから、直向きにやっていきましょう。


僕は、病気をして初めて分かりました。それは、ゆっくり、生き急がなくていいということです。

身体に不自由な部分があると、どうしても物理的に下を向いてばかりいます。でも、手を差し伸べてくれる人は上から出してくれているんですよね。

同じようにリハビリに励んでいる人も、当然、孤独を感じたり辛い日はあると思います。だけど、下ばかりを向いていると、手を差し伸べてもらっていることさえ気づくことが出来ません。

だから、どんな時も少しだけでもいいから上を見上げてみましょう。

きっと、心が軽くなるから。


かわむー
かわむー

最後は、温かくも非常に力強いメッセージをいただきました。

多くの人に支えられながらも、影での努力を怠らない丸山さんから、リハビリを続ける本当の意味というのを教えていただきました。

コロナ禍が落ち着き、お店に活気が戻ってくることを心からお祈りいたします。美味しいアテととっておきの日本酒が飲める場所・日本酒立ち呑みbar丸。

今後の丸山さんのご活躍を心より応援しております。本日はありがとうございました。


日本酒立ち呑みbar丸

営業日時:月〜土 18:00〜翌0:00
(※新型コロナウイルス感染拡大等により、記載と異なる場合があります。詳しくはお店までお問い合わせください)

住所:広島県広島市南区大須賀町12-2

アクセス:広島駅から300m

TEL:09079916463



以上、本日は40歳で脳出血を発症するも、日本酒立ち呑みbar丸のマスターとしてカウンターに立ち続ける「丸山敬三さん」を紹介させていただきました。

一人でも多くの方に、丸山さんの素敵な想いがお届けできれば幸いです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!



かわむーでした。




この取材は、本人の同意を得て行なっています。本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒宜しくお願い申し上げます。

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