みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!
今回は、1939年創業の老舗自動車販売店で現在は福祉車両事業も展開している「株式会社ミズタニ」の会長・水谷雅夫さんにお話を伺いました。
雅夫さんは、働き盛りの45歳当時、父親から受け継いだ会社の2代目社長として会社を経営するなか、年末に事務所の大掃除をしている最中にハシゴから転落し、脊髄を損傷。以後、車椅子となるも会社を牽引するために常に前を向き歩み続けてこられました。74歳となった現在も、会長として週5日勤務しています。
本記事では、雅夫さんのこれまでの歩みやリハビリの原動力、継続するためのコツや今後挑戦したいことについてご紹介します。
※本取材は、2022年5月に以前リハノワで取材した熊本在住の車椅子youtuber・しょうこさんの紹介がきっかけで実現しました。貴重なご縁をありがとうございました。
水谷雅夫さん
◆ 水谷雅夫(みずたに・まさお)さん
株式会社ミズタニ 会長
1948年京都府京都市出身。高校卒業後、父・水谷一昌氏が創業した株式会社ミズタニに入社し、1991年2代目社長に就任。1993年12月30日、作業中の事故で脊髄を損傷(Th11)。リハビリを経て仕事に復帰し、2011年までの20年間社長として会社を牽引した。現在は長男の匡さんにバトンを渡し、会長として週5日勤務している。
株式会社ミズタニ
1939年創業の老舗自動車販売店。「京都のモビリティライフに幸せを運びます」という経営理念のもと、自動車整備・鈑金塗装、新車・中古車販売、保険事業を展開し、自動車に関するトータルサポートを行う。2014年から福祉車両の中古車の販売・買取を開始し、2021年2月からは「福祉車両コンシェルジュ事業」をスタート。 福祉車両レンタカー、サブスクリプション、メンテナンスリース、販売・買取など、福祉車両に特化したサービスを展開する。
僕は、水谷家の三男として京都に生まれました。幼少期の頃から身体が丈夫で体力には自信があり、スキーや少林寺拳法、マラソンなどのスポーツに励みました。
高校卒業後は父の会社に就職し、中古車センターの立ち上げから関わりました。入社当時、中古車販売をする会社は全国的にも少なく「中古車のミズタニ」は京都でも初の中古車センターとして名が知られていきました。
1966年開店当初より車がよく売れ、入社して18年でサービスから工場、事務、保険、営業、経理まで、修理以外はすべてを経験。休日は月に1〜2日くらいあれば良い方で、とにかく仕事三昧の日々を送ったように思います。
1985年からは実質、僕が会社を仕切るようになりました。父は78歳まで現場にたっていましたが、がんを宣告されたことをきっかけに引退。1991年、2代目社長に就任しました。
車椅子の社長になった日
18歳で就職して以来、ご家族との時間も大切にしながら仕事に励んでこられた雅夫さんですが、車椅子生活を余儀なくされた大怪我をおったのは、社長に就任して3年目のことだったのですね。
受傷当時の記憶や入院生活、その後のリハビリについてなど、覚えている範囲でお聞かせいただいてもよろしいでしょうか。
1993年12月30日の夕方、僕は年末の大掃除のため、一人で会社の2階にある窓を拭いていました。
毎年の年越しは趣味のスキーを楽しむために雪山で過ごしていたため、その日の夜行列車で長野へ行く予定でした。そのため、早く掃除を終わらせようと多少焦る気持ちはあったかもしれません。
作業中、僕ははしごから転落しました。
はしごに上ろうとして足を踏み外したのか、窓を拭いている時にバランスを崩したのか全く記憶はありません。近所の人が倒れている僕を見つけて救急車を呼んでくれました。
気がついた時、僕は救急車に乗っていました。同乗していた妻に、「膝が立っているから真っすぐ伸ばしてくれ」とひらすら訴えたのを覚えています。
しかし、あとになって妻に聞くと、その時僕の足はまっすぐ伸びている状態だったそうです。既に、感覚がなかったのだと思います。
会社に一人でいらっしゃる時の大事故だったのですね。雅夫さんはもちろん、ご家族もびっくりされたことと思います。病院に運ばれた後はどのような処置をうけられたのですか。
救急車で京都にある大きな病院に運ばれて検査をしたところ、頭蓋骨と背骨が折れてることが分かりました。
「名前が言えますか」といった意識の確認や、「目が見えますか」といった脳が正常に動いているかの検査をされ、胸部の方が重症そうだということで、その日のうちに胸部の手術を行いました。
骨折が確認された第11胸椎を大きなボルトで固定するという手術で、ボルトは今も胸椎に入ったままです。それから2日後、今度は頭に溜まった血を取り除く手術を受けました。
目を覚ましたのは、年を越した1月3日。頭から血を抜くためのチューブが出ていたことに、僕はとても衝撃を受けました。これまで身体が強いことを取り柄に生きてきたので、当然入院もしたこともなく、「まさか自分が」と驚きを隠せませんでした。
術後は1ヶ月程度続いた高熱がとても辛かったです。それは、死ぬんちゃうんかと思わずにはいられないほどでした。両足は動かせませんでしたが、ピリピリとしていたので、そのうち動くのだろうと思っていました。
当時、まわりに脊髄損傷で入院している人はおらず、今後のことは全く分からない状態でした。
リハビリに関しては、最初の病院では大きなコルセットを着けていたためあまり動けませんでした。寝返りの練習やプッシュアップ、重錘を使って腕の筋トレを行いました。
リハビリ生活の始まり
1ヶ月続いた高熱や足のピリピリ感、胸部の骨折による活動制限、とても辛くもどかしかったことと思います。体調が落ち着いてからは、リハビリのための転院もされたのですか。
怪我から3ヶ月後、京都にあるリハビリ専門の病院に転院しました。そこでは約3ヶ月間、入院することになります。
入院時には「ここでリハビリをしたら歩いて帰れる!」と思っていたのですが、リハビリの先生から「車いすで生活できるためのリハビリをしますよ」と言われて初めて、僕は一生歩けないんだということを知りました。
3ヶ月間リハビリをして自宅に帰る予定でしたが、入院してすぐにMRSA(多剤耐性菌の一種)に感染したことから隔離生活となりました。1日に1回だけ運動場に出て車椅子で一周するくらいしかできない日々。よくなったと思ったら2回目の感染も発症し、入院期間3ヶ月のうち2ヶ月は隔離生活を送りました。
そのため、いわゆる筋トレなどの身体のリハビリはほとんど行えず、一般病棟に戻れた1ヶ月くらいで生活のリハビリをメインに行いました。
プッシュアップで移乗する方法を練習したり、作業療法士さんにお風呂の入り方や自動車の乗り方を教えてもらったりしました。退院前にはリハビリの先生が自宅まで来てくれて、自宅での導線やトイレなどの環境を確認しました。
僕は、住む場所を1階にするなど生活環境を変えることで、ほとんど改修は行わずに退院しました。そして、退院翌日には会社に向かったのでした。
焦りと覚悟
実質1ヶ月しかまともにリハビリできていない状況での退院だったのですね。会社の代表として、仕事のことも相当気になったと思います。
色んな想いを抱えて半年間の入院生活を送られたかと思いますが、入院当時のリハビリの励みになったことや、退院翌日からお仕事をするために準備したことなどがあれば教えて下さい。
怪我をした当時、僕は45歳でした。年齢もまだ若いですし、働き盛りです。会社が忙しかったのも「リハビリを頑張って早く戻ろう」という原動力になっていました。
また、当時まだ長男が大学生だったことや、退院後に自宅をバリアフリーに新築したことも活力になっていたと思います。お金を返済するために仕事を頑張らなくちゃいけない!と、とにかく必死でした。
退院した翌日には仕事が再開できるように、僕は、仕事で行く先の周辺にある公衆トイレを調べてまわりました。当時はまだ障害者が外出しやすい社会ではなかったため、人に頼ることはできません。とにかく、自分でやるしかなかったのです。
退院後、自宅ではやはり「お風呂」と「トイレ」に苦労しました。そのため、実際に車椅子ユーザーの方の自宅にお邪魔し、暮らしやすい家造りを勉強させてもらいました。
その方は生活に関する色んなアドバイスもくれました。例えば、「夜お風呂に入るまでの体力を残しておかないといけないよ」というのはとても印象に残っています。湯船に浸かろうと思うと2回プッシュアップが必要になるなど、お風呂って結構体力を使うんです。
その方にアドバイスをもらって以降、1日の体力の使い方を意識するようになりました。
お話をお聞きしながら、「当時はまだ障害者が外出しやすい社会ではなかった」というのが気になりました。
実際、僕自身も当初は車椅子だということ自体が恥ずかしくて、外出時は裏道を通るようにしていました。
とても、メイン通りを車椅子で通ることはかなわんかった。何年かは、そんな「恥ずかしい」という気持ちがあったと思います。
しかし、パラリンピックを皮切りに世の中が少しずつ変化していきました。それに伴い、僕自身も助けを求めていいんだ、という気持ちになりました。
昔は「手伝おうか?」といわれても「大丈夫です」と遠慮していましたが、時代とともに堂々と「お願いします」と言えるようになったのです。次第に外で車椅子ユーザーを見かける機会も増えるようになりました。
あの人の背中を追い続けて
現在、雅夫さんはどういったリハビリをされているのでしょうか。
ここ最近は、週に1回肩のリハビリに通っています。プッシュアップや移動でずっと肩を使わないといけないので、右と左が代わる代わるに痛くなるんです。リハビリでは、最初20分くらい肩を動かしたりほぐしたりして、その後ホットパックであたためます。
その他、日々の体力づくりとして、自宅で鉄アレイ4キロを使って筋トレをしています。以前は10キロでやっていましたが、最近は肩の痛みもあり軽くしています。僕の場合、自動車に乗るときは車椅子の積み込み作業を自分でしているので腕の筋トレは必須です。毎晩、肩の外転・挙上・肘曲げを7回ずつやっています。
また、木・日以外は会社へ10時に出勤し定時で勤務、月・水は朝7:40〜8:00に阪急西向日駅で小学校の交通整備のボランティアにいっています。土曜の朝は7:00から近所の公園でラジオ体操に参加して、地域の方々と交流しています。家の周辺にある坂道を車椅子で漕いでトレーニングすることもあります。
かなり活動的で素晴らしいですね!現在、何か目標にされていることはありますか?
目標はたくさんあります。
まずは、四国八十八ヶ所霊場めぐりを先日終えたので、今度は高野山に報告にいきたいと思っています。その他、小学校の同級生を誘って北海道一周もしたいです。冬のニセコスキー場もいいですね。
あと、能登半島やハワイにも行きたいです。ハワイは以前、ホノルルマラソンで行ったのですがゆっくり観光できなかったので、今度はワイキキで泳ぎたいと思っています。
このように目標はたくさんあるのですが、僕はこれらを1~2年で実行したいと思っています。おそらく5年先は体力もかなり落ちていると思うので、元気なうちに成し遂げたいです。
僕には目標としている人がいます。
それは、四国在住の車いすマラソンランナー工藤金次郎さんです。
以前からマラソンが趣味だった僕は、車椅子になってからもマラソンを続けたいと思い、H6年9月に兵庫県で開催された車いすマラソン大会の見学にいきました。そこで、当時70歳の工藤さんに出会います。
彼は、一人で徳島から運転してきてレースに参加していました。「こんな年の方でもできるのか!」と勇気をもらい、その後、僕は2回レースに出場しました。
先日テレビを見ていたら、96歳になった工藤さんが特集されていました。なんと、「大分国際車いすマラソン大会」に現役で出場するというのです。肺がんのため片肺になって心肺機能は下がったものの、酸素を吸いながら大会に向けた意気込みを語っていました。
そんな工藤さんの姿を見て、「僕もまだまだ頑張らないとな」と元気をもらいました。
小さな目標を立てる意味
雅夫さんのあまりのパワーと、工藤金次郎さんという超人の存在を知り、もう、開いた口が塞がりません!
雅夫さんには目標がたくさんありますが、工藤さんもインタビューの中で「目標を作らなダメやな」とお話されていますね。
やはり、「目標がある」「目標を立てる」ということは、元気でいるためのポイントになりそうですね。
そうですね、僕も「小さな目標を立てつづけること」こそが、元気でいられるコツになっているのではないかと思います。目標があることで、日々のリハビリにも精がでます。
僕の場合は、半年先くらいまで毎月何かしらの目標を立てています。
また、目標を達成するために体調管理にはとても気をつけています。
怪我をしてから29年間、毎日欠かさず飲水量や尿量、血圧や体重、便の状態など身体の様子を記録しています。リハビリ病院でMRSAに感染した時に、記録するクセがついたんです。おかげで自分をコントロールできるようになりました。
その他、床ずれ(褥瘡)にならないように管理するのも重要です。今は、2時間座ったら休憩するように心がけています。日中はこまめにプッシュアップをして、夜中は体位変換のために2回は起きています。
これまで、床ずれで4回・足の骨折と火傷で1回ずつ入院しました。1回入院すると長引くケースが多いので、気をつけながら生活しています。
目標や計画の大切さがよく分かったとともに、完璧な自己管理をおこなう雅夫さんにとてもびっくりしました!私も病院で働いていた時には、よく患者さんの体調管理を一緒に行っていましたが、退院後一人でここまで完璧にされている方はなかなかいらっしゃいません。取材同行していたカメラマンで医師の山本さんも、かなりビックリしていました。雅夫さん、素晴らしいです…!
心を込めて、メッセージを
最後に、リハビリを始めた頃のご自身に向けてメッセージがあればお願いします。
この29年を振り返ると、よくここまでこれたなと思います。
怪我をして間もない頃の自分には、「大丈夫、なんとかなるよ」って伝えたいですね。
最初は車椅子の自分が嫌で、恥ずかしいかもしれんけど、少しずつ外に出ることによって世界が変わる。
人が助けてくれるから、頼ったらいい。厚かましいかなって心配しなくても大丈夫。そう伝えたいですね。
あと、これは自分ではないですが、怪我をしてから車椅子になって一番大変な時期を支えてくれた社員さんや家族には、感謝の気持ちを伝えたいです。不在にしていた1年間は特に、なんとか会社をやってもらって本当に感謝しています。
今も仕事は大変だと思うけど、いっぱい仕事したぶん、たくさん元気に遊んで、ストレス発散して、頑張って欲しいです。僕も歳でパソコンはよう使わんけど、勉強していかないとね。がんばります。
社長(匡さん)も、無理しているんじゃないかな。大変なこともあるしストレスもかかるかもしれんけど、身体はほんまに大事だから、つぶさんようにね。応援してます。
雅夫さん、素敵なメッセージをありがとうございました。
さまざまな困難を乗り越えながらも、常に目標に向かって前に進み続けられるその姿には、多くの人が勇気をもらいます。
これからも、大好きなお仕事や趣味活動が続けられるよう、雅夫さんや皆さんのご健康をお祈りいたします。
いつもパワフルで前向きな雅夫さんの、大変だった時のお話やリハビリ方法、また原動力となったことなどたくさんお伺いすることができてとても勉強になりました。
雅夫さん、貴重な声をお聞かせいただき本当にありがとうございました!
<水谷さん関連情報>
・株式会社ミズタニHP
・福祉車両コンシェルジュ
・Instagram(会社)
・Facebook(会社)
ぜひ合わせて御覧ください。
写真提供:山本夏希
以上、本記事では「株式会社ミズタニ」の会長・水谷雅夫さんを紹介させていただきました。
一人でも多くの方に、雅夫さんの素敵な想いと魅力がお届けできれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!
かわむーでした。
この取材は、ご本人から同意を得て行なっています。本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒宜しくお願い申し上げます。
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