【当事者の声】脊髄損傷後、3年越しのピッチに立つ。元サッカー少年がボールに込める想い | 猪原陸さん

みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!

今回は、2023年6月に広島県福山市にあるツネイシフィールドで行われた福山シティFCの公式戦にお邪魔し、キックインセレモニーに登場した脊髄損傷当事者で元サッカープレイヤーの猪原陸さんにお話を伺いました。

猪原さんは、幼少期から大学までサッカーをしていましたが、怪我を契機に引退。その後、交通事故により脊髄を損傷し車椅子生活となりました。本記事では、猪原さんの受傷当時の様子やリハビリの歩み、再びピッチに立ったイベントの様子をご紹介します。

※福山シティFC(広島県福山市を拠点とする地域に根ざしたサッカークラブ)

猪原陸さんとサッカー

猪原陸(いのはら・りく)さん

2000年11月、広島県福山市生まれ。両親と妹の4人家族。小学生の頃からサッカーを始め、クラブチームや高校の部活動でプレーした後、スポーツ推薦で大学へ進学。怪我の影響で思うようにプレーできず、1年生の秋に退学した。その後、語学留学をするために資金を貯めていた2020年7月、交通事故で脊髄損傷や重度熱傷をはじめとした多発外傷を受傷。約1年半の入院治療およびリハビリを経て、現在は実家で家族とともに暮らしている。


猪原さん
猪原さん

僕がサッカーを始めたのは小学校3年生の時でした。小学生の時は、学校のチームやサンフレッチェツネイシというクラブチーム、中学生の時は福山FCに所属してプレーしました。中学時代は練習は週に2日でしたが、土日のほとんどを遠征や試合に費やしました。

高校は選手権出場を目指して、学校の部活動でプレーしました。休みの日も学校にいって自主練習に励むなど、とにかくサッカー漬けの日々を送ります。

しかし、高校3年生の夏に足を骨折。ちょうど試合の時期だったので、「決勝リーグにはなんとか間に合わせたい」という思いで、手術ではなく電気治療で経過を見ていました。しかし、これからもサッカーを続けることを見据えて、結局は手術することを選択。術後はリハビリに励みました。

大学はサッカーをするために進学しましたが、足が思うように回復せず練習についていけなくなり、1年生の秋に退学しました。

その後は、海外に語学留学に行くための資金を貯めるべく、工事現場でアルバイトに励む日々を送ります。


青春をサッカーに捧げた、高校時代の猪原さん(ご本人より写真提供)
猪原さん(写真中央、ご本人より提供)

リハビリ生活のはじまり

かわむー
かわむー

サッカー一筋だった猪原さんですが、怪我を契機に違う世界に羽ばたこうと前に進まれていたのですね。

しかし、車椅子生活を余儀なくされる大事故に遭われたのは、留学待機中の2020年夏のことだったとお聞きしました。受傷当時の記憶や入院生活、その後のリハビリについて、覚えている範囲でお聞かせいただいてもよろしいでしょうか。


猪原さん
猪原さん

2020年7月、県外をドライブ中に交通事故に遭いました。車から火が出るほどの大事故だったと聞いています。

僕は意識不明の重体で、近隣の大きな病院に運ばれました。胸髄損傷(Th7-8)、下肢の重度熱傷、低体温、肋骨骨折、顔面骨折、裂傷など、身体にたくさんの傷をおっていたようです。

ICU(集中治療室)に入り、まずは手術ができるくらいの全身状態にするために、1週間程度は人工呼吸器をつけて安静にしました。その後、骨折した胸椎を固定する手術や、顔の骨の手術、皮膚の移植術などを順に行いました。

ICUには1ヶ月程度入院し、その後、一般病棟に移りました。大学病院には、計4ヶ月間入院することになります。


かわむー
かわむー

脊髄損傷やその他の骨折に加え、下肢の重度熱傷は治療がかなり大変だったと思います。リハビリを進めたくても皮膚の治療的にはあまり動かせない、という葛藤もあったのではないでしょうか。

最初に運ばれた病院や転院先のリハビリ病院では、実際にどのようなリハビリに取り組まれたのですか。


猪原さん
猪原さん

最初の病院のICUでは、ベッドの上で錘(おもり)を使った腕の筋トレを行いました。

一般病棟に移ってからは、少しずつ座ったり車椅子に移ったりするリハビリが始まりましたが、起立性低血圧があったので少しずつしか進められませんでした。また、足の火傷はおしりの方まであったので、その部分が擦れないように移乗の練習も数多くはできない状況でした。

リハビリ病院に転院する直前は、平行棒で立つ練習やボールを使った練習などを行いました。「サッカーのスローインがもう一度できるように…!」と、ボールを使った体幹トレーニングには頑張って取り組んでいたのを覚えています。

脊髄損傷専門のリハビリ病院に転院してからは、日常生活の自立に向けたリハビリに取り組みました。

理学療法は腕のトレーニングがメイン。錘の重さは、最初は2kgくらいで限界でしたが、この時には13kgくらいまでは上がるようになっていました。その他、懸垂やアブローラーを使ったトレーニングも行いました。


リハビリを始めた当初(ご本人より写真提供)
リハビリ室での体幹の練習(ご本人より写真提供)
「再びスローインができるようになる」を合言葉にリハビリに励む(ご本人より写真提供)
ご本人より写真提供


猪原さん
猪原さん

作業療法では、車の練習を行いました。お風呂やトイレの練習もしましたが、皮膚のことがあったので1回だけ動作確認をした程度だったと思います。しっかりと腕を鍛えていたので、動くのは問題なくできていたと思います。

そんなリハビリ生活を約1年半ほど過ごし、2022年12月26日、ついに念願の自宅退院を果たしました。

自宅は車椅子でも生活できるように、退院前に改修をしてくれていました。家の中の導線を整えたり、お風呂のあとに皮膚のケアが必要なので脱衣所にスペースをつくったり。家族には本当に感謝しています。

退院後は、リハビリ施設にいってトレーニングをするなど、これといったリハビリは特にしていませんが、積極的に外出するようにしています。一人で車椅子を漕いで出かけるのですが、それが良いリハビリになっているんじゃないかと思います。

「散歩に行ってくるね〜」と、よく一人で近くの神社まで車椅子を漕いでいっています。往復20分程度は漕いでいるんじゃないでしょうか。


目標を見失ったあの日

かわむー
かわむー

前向きで明るい笑顔を見せてくれる猪原さんですが、これまでリハビリを続けてきた中で、辛いとか大変だと感じたことはありましたか。


猪原さん<br>
猪原さん

その都度、あらゆる現実を受け止めながらこれまで過ごしてきましたが、家族や友人の支えもあり、そこまで大きく凹んだことはなかったように思います。

「足はもう動かない」と聞かされた時も、なんとなくそうだと察していたので、泣きわめくようなことはなかったです。家族や病院の人たちは、僕が想像以上にあっけらかんとしていたので、いつ反動がくるかと心配していたみたいですが、特に大きな波もなく時は過ぎました。

ただ、メルボルンへの語学留学に向けてアルバイトを頑張っていたので、「もう海外に行くのは難しい」と告げられた時は、ものすごくショックだったのを覚えています。

目標を失ったことが、僕にとってとても辛い経験でした。



猪原さん<br>
猪原さん

身体のことでいうと、移乗のときに皮膚が擦れないように気をつけないといけないのは大変です。

あと、トイレは大問題。実際には感覚がないのですが、運動したらトイレに行きたくなる気がしていたので、そのコントロールをするのに最初は苦戦しました。

そして、排便のコントロールがつかないことは今でも怖いです。

実際に退院した後、外出時に何度か失敗して家に帰らないといけなくなったことがありました。あれは結構、凹みましたね。

僕の場合、皮膚のケアも合わせて必要になるので、余計に大変なんです。


原動力となったのは

かわむー
かわむー

リハビリを続けるなかで、楽しいとかやりがいを感じる瞬間があれば教えてください。


猪原さん
猪原さん

最初できなかったことが、だんだんとできるようになっていく時は嬉しいですね。コツを掴めた瞬間とか「何だ簡単じゃん!」「できるじゃん!」って。

日常生活でいうと、一人でシャワーができるようになった時はとても嬉しかったです。リハビリ病院から退院する1ヶ月前くらいに練習して、できるようになりました。


かわむー
かわむー

「できる」が積み重なって自信に繋がっていく過程は本当に嬉しいですよね。当時、猪原さんの原動力となっていたことは何だったのでしょうか。


猪原さん
猪原さん

僕は友達愛が強い方なので「早く退院して、友達と一緒に遊びたい!」というのを原動力に、リハビリに励んでいました。

ちょうどコロナ禍で面会が禁止されていたので、友達がお見舞いに来てくれても直接は会えない状況でした。早く友達に会いたい、という気持ちがどんどん強くなっていっていたのを覚えています。

あとは、リハビリの先生をはじめ、本当に人に恵まれていたと思います。僕の心身の状態に合わせて、みなさんとても丁寧に寄り添ってくださいました。

また、リハビリ病院に入院していた当時の楽しみは、「リハビリで筋トレを頑張ったあとに、売店で働く可愛い子に会いに行く」ことでしたね。それが日々のモチベーションでした(笑)


サッカーが持つ力

かわむー
かわむー

2023年6月4日の福山シティFCの公式戦で、キックインセレモニーに登場した猪原さんですが、今回セレモニーの話があった時、どのようなお気持ちでしたか?


猪原さん
猪原さん

今回の話をもらった時、率直に嬉しかったし、すぐに「やりたい!」と思いました。

今ならスローインできる自信もあったし、間近でサッカーを見たいって思いました。そして何より、昔プレーしていたツネイフィールドに行けること、ピッチに入れることがものすごく嬉しかったです。


かわむー
かわむー

実際に3年ぶりにピッチに立ち、リハビリでたくさん練習したスローインに成功した瞬間のお気持ちも教えてください。


猪原さん
猪原さん

僕にとって、ピッチは戦場です。そのピッチに再び立てたことで、なんでも恐れずにチャレンジする大切さを思い出しました。

試合当日は、かつての監督やコーチ、一緒にプレーした仲間などいろんな人に会えたのも嬉しかったですね。

人工芝の感じなど、プレーしていた当時のことも色々と思い出して、めちゃくちゃサッカーしたくなりました。


キックインセレモニーでスローインを披露する猪原さん
試合終了後、選手たちと勝利のハイタッチ
名前入りのオリジナルユニフォームで応援しました

過去の自分へメッセージ

かわむー
かわむー

最後に、リハビリに励んでいた当時の自分にメッセージをお願いします。


猪原さん
猪原さん

そうですね。

「自分が思うように選択して大丈夫。ただし、やる時にはちゃんとやる。それだけは徹底して行っていれば、あとは楽しい方を選べばいい。自分を信じて。僕は今、とっても楽しいよ」

そう、伝えたいです。

僕は、僕のペースで続けたらいい。人と比べることはない。そう思っています。

あと最後に、普段は照れくさくてなかなか伝えることができていませんが、いつも本当にお世話になっている両親には、心から「ありがとう」と感謝を伝えたいです。

いつもありがとう。感謝しています。


かわむー
かわむー

聞いている私が勇気づけられる、そんな温かくも力強いメッセージをありがとうございました。

また、いつも猪原さんを近くで支え続けているご両親へのメッセージもありがとうございます。照れくさそうに発するその言葉と笑顔に愛を感じました。

リハノワは、自分らしく前向きに歩み続ける猪原さんのこれからのご活躍を心から応援しております。

貴重な声をお聞かせいただいた猪原さん、取材にご協力いただいたお母様のりえさん、本日はありがとうございました。


いつも隣で支え続けているお母様・りえさん

撮影:みっこ



以上、今回は脊髄損傷当事者で元サッカープレイヤーの猪原陸さんをご紹介させていただきました。

一人でも多くの方に、猪原さんの素敵な想いと魅力がお届けできれば幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!


かわむーでした。


この取材は、御本人から同意を得て行なっています。本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒宜しくお願い申し上げます。

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