みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!
今回は、19歳当時の事故で頸髄を損傷するも、現在は大学教員や車椅子YouTuberなど多方面でご活躍されている「中村珍晴さん(愛称:ちんさん)」を取材してきました。
当時のリハビリの様子や原動力、また、ちんさんが現在力を入れられていることや今後挑戦したいことなど、その魅力にとことん迫っていきたいと思います!
ちんさんとリハビリ
◆ 中村珍晴(なかむら・たかはる)さん
愛称:ちんさん
出身:山口県 現在は神戸市在住
職業:大学教員、車椅子YouTuber
資格:
・博士(スポーツ科学)
・日本スポーツ心理学会認定スポーツメンタルトレーニング指導士
<ちんさんとリハビリ>
2007年9月1日
アメリカンフットボールの試合中に首を骨折
頸髄損傷と診断され救急搬送 手術
9月5日頃
リハビリ開始
9月20日頃
初めてリクライニング車椅子に乗車し外を見る
11月初旬
別の病院へ転院
残存機能トレーニングがしっくりこなかった
2008年2月
せき損センターへ転院
2008年3月
自宅退院(山口県の実家へ)
自宅でリハビリ生活
2010年4月
天理大学へ復学
自宅でのリハビリ継続
2014年4月
大阪体育大学大学院 スポーツ科学研究科進学
2016年
博士課程進学
suisuiプロジェクトとしてYouTube開始
2018年
神戸学院大学 勤務
大阪から神戸へ移住
2020年
神戸ロボケアセンターでリハビリ開始
事故当時の記憶
もともと体育の教員を目指し天理大学の体育学部へ進学されたちんさんですが、新しいスポーツにチャレンジしたいという思いからアメリカンフットボールを始められたそうですね。
事故当日も競技をされていたとのことですが、当時の記憶というのは残っているのでしょうか。
はい、鮮明に残っています。2007年の9月1日、その日はちょうど、大学1回生だった僕のデビュー戦でした。
前半戦が終わってチームは負けていたのですが、なんとか後半で盛り返していこうと意気込んでいました。後半に入って5分後ぐらいに、あるプレイで相手チームの選手が僕に向かって走ってきたんです。前半ではその選手にいいようにやられていたので、後半はしっかりブロックしようと思って自分の足を前に出した次の瞬間、身体に大きな衝撃が走りました。
周りの光景がスローモーションになって、気がつくと僕は仰向けで倒れていました。チームメイトが呼ぶ声に応えようと起きようとするのですが、僕の首からしたは全く動きませんでした。
異変に気がついたチームの人が担架でベンチサイドまで運んでくれ、ゲームドクターの診察を受けました。膝や手の痛みや動かせるかと問われましたが、全くこたえる事はできませんでした。
僕はぶつかる時、アメフトでは禁忌とされている頭を下げた状態でヒットをしてしまい、その結果、第4・5頸椎がダメージを受けたのです。自分の体は頭しか残っていないような、不思議な感覚だったのを覚えています。
その後、すぐに救急車で市内の病院へ運ばれ、手術が必要な状態だと判断されました。たまたま頸椎の手術ができる医師が病院にいたため、緊急で手術をすることになります。
僕の記憶自体はしっかりしていたので、今でも当時のことは覚えています。14時ごろに病院に搬送され、17時から手術室へ移動しました。そして、手術が終わりICU(集中治療室)に帰ってきたのは、日付が変わる前の23時頃でした。
受傷前から直後、そして、その後の様子まで本当に鮮明に記憶されてるのですね。
手術が終わった後の生活はいかがでしたか?
手術が終わってからは、ICUに3日間、HCUに10日間入室したのち、一般病棟へ移動しました。
リハビリが始まったのは、HCUに移ってからでしたね。PTさんがきて、拘縮予防のリハビリから開始されました。僕は起立性低血圧が重度だったので、ベッドを10度起こすのだけでもめまいが生じ、なかなか起き上がることができませんでした。
ようやくリクライニングの車椅子に乗れたのが、入院して20日ほど経った頃でした。初めて車椅子に乗せてくれたのはリハビリの方です。せっかくなので外を見に行こうと、その時お見舞いにきていた僕の兄も一緒に、3人で散歩に行きました。
僕の兄は当時会社員だったのですが、その瞬間に、PTを目指すことを決意したみたいです。
ちんさんのお兄さんといえば、教育熱心なPTさんとして有名ですが、この瞬間にPTになることを決意されたのですね。弟を助けたいという、お兄さんの強い思いが伺えます。
車椅子に乗れるようになってからは、リハビリは順調に進んでいきましたか?
そうですね、車椅子に乗れるようになった頃から食事の練習が始まりました。僕の腕は左のほうが動きやすかったので、介助してもらいながら左腕でなんとか自分で食べるように練習を重ねました。
当時のリハビリの方が、時間外にもかかわらず食事の時には車椅子乗せてくれて、練習にもずっと付き合ってくれていました。本当、ありがたかったですね。
その後、最初の入院から2ヶ月が経った頃、僕は別の病院にリハビリ目的に転院することになりました。そこの病院には3ヶ月間入院したのですが、その時、色々な思いがふつふつと湧いてきたんです。
受傷して4〜5ヶ月たった頃ということですね。
リハビリも進んでいた時期かとは思いますが、それはどんな思いだったのでしょうか。
実は僕は、怪我をして10日目に”あなたはもう歩くことはできません” と医師に宣告されました。
しかし、僕は “もう一度、立って歩きたい” と強く思っていました。歩くことを、どうしても諦めることができなかったんです。
そのため、残された機能を使って社会復帰を目指そう、と言われ取り組んでいた病院での残存機能トレーニングはしっくりこなかったですし、納得がいきませんでした。
そんな時、当時の僕の思いを後押ししたのは再生医療の存在でした。
新聞の一面で、京都大学の中山教授がiPS細胞について語られているのを目にしたんです。将来的に再生医療が実現したら脊損も治るかもしれない、ということを知り、僕の思いは確固たるものになりました。
“再生医療が受けられるその日のために、身体の状態が維持できるようにリハビリすることが大事だ” と強く思うようになります。そのためには、立ったり歩いたりする練習が必要でした。
色々と調べる中で、自費診療でリハビリができるという事も知りました。病院で残存機能練習だけをしている場合ではないと、すぐにでも退院したい気持ちが強くなります。
異例の早さで退院した理由
転院先の病院で自宅退院しようと決意したちんさんですが、脊損後のリハビリは1〜2年程度は入院しながら継続するのがスタンダードな印象です。
受傷後わずか5ヶ月で自宅退院しようと判断された裏では、おそらく様々な障壁があったのではないかなと想像されます。実際には、いかがでしたでしょうか。
全くその通りです。退院したいことを病院側に伝えると、医師に呼び出され、かなり厳しい言葉をいただきました。何を考えてるんだ、本当にいいのか、と。
僕の強い思いを伝えるもうまいこと折り合いがつかず、一旦は実家近くのせき損センターへ転院することになりました。
しかし、歩くことを諦めたくない僕は、転院先のせき損センターも3週間ほどで退院します。その時も、きっと、病院の人は色々と思うところがあったんじゃないかと思います。
しかし改めて思い返すと、当時の僕の思いをよしとしてくれたうちの両親は、本当にすごいなと思います。頭が上がりませんね。
当時のちんさんの強い思い、そして、ご家族の方のちんさんを支えようとされる強い姿勢が想像され、胸が熱くなりました。
自宅で生活するにあたり、サポート体制やリハビリはどのような形で進められていったのですか?
退院後は丸2年、自宅で家族と生活することになるのですが、母と兄は付きっきりで僕のケアにあたってくれました。
実は兄は、僕が退院して1ヶ月程たった頃、仕事を辞めて実家に帰ってきたんです。そこから丸2年、僕のお風呂やトイレ、さらには1日2回のリハビリを手伝ってくれました。
外部の支援としては、ヘルパーさんが毎日と、訪問リハビリが週に2日来てくれていました。
リハビリは主に、担当のPTさんと兄、父と兄など、二人がかりで毎日行われます。立って歩くことを最終的な目標にしていたので、筋力が落ちないようなトレーニングや立つ練習を行なっていました。
午前と午後ずっと付きっきりでリハビリしてくれた兄は、まさに僕の専属PTのようでした。今自分でお話ししながら、改めてすごいなぁと感じました。周りで支えてくれた方には感謝しかありません。
1000日越しの仲間
自宅で毎日2回のリハビリを2年間継続されたちんさんですが、当時のリハビリのモチベーションというのはどこにあったのでしょうか。
大学に “復学する” ことでしたね。
僕は大学1回生の時に事故にあったのですが、当時の仲間がいるうちに復学したいという思いが強くあり、一生懸命リハビリに取り組みました。そこが目標であり、日々のモチベーションでしたね。
そして、怪我をしてから2年半後の2010年4月、僕は大学(奈良県)に無事復学することができました。この時、母と兄も一緒に引っ越し、このタイミングで兄はPTの養成校へ通い始めました。
ついに思いが叶った瞬間ですね…!
復学した時、ちんさんはどんな気持ちでしたか?
それはもう、嬉しかったです!友達が家に迎えにきてくれてキャンパスに行ったのですが、そこには同級生がたくさんいて、僕を温かく迎えてくれました。みんな4回生になっていたけど、最後の1年にはなんとか間に合ったことが本当に嬉しかったです。
授業をみんなで受けて、お昼ご飯食べて。こんな当たり前の日常を、僕は1000日間くらいずっと思い浮かべながら過ごしてきました。ここに戻りたいって、またみんなと過ごしたいって思っていたから、その喜びもひとしおでしたね。あの瞬間は、今でも強く心に残っています。
授業に関しては、半期分の単位はもともと取得できていたため、はじめは無理はできないことから、復学して最初の年は、半期分の単位を1年かけて取得しました。
半日は学校、半日はリハビリという生活を送ることになります。ヘルパーさんが週5日、訪問リハビリが週2日きてくれました。兄は学校へ通い始めたため、そのほかの人の力もかりながら、筋力をつけるリハビリに励みました。
そして、2014年の3月に無事大学を卒業。翌4月からは、大阪体育大学院のスポーツ科学研究科へと進学し、スポーツ心理学についての研究を始めました。
お話を伺いながら復学された当時の光景が目に浮かび、目頭が熱くなりました。
大学院で研究も始まるとなるとかなり忙しくなりそうですが、進学後はどのような生活を送られたのですか?
2014年の6月に、大学の時に行けなかった教育実習に行きました。中学校に行ったのですが、とても楽しかったです。もちろん大変なこともありましたが、子どもたちは素直でいい子ばかりで、手助けの精神に溢れていました。
その後、大学院の近くへと引っ越し、母との2人生活が始まります。兄は無事にPTの試験に合格し、病院で働き始めていました。そのためリハビリは、母に手伝ってもらいながら家で週に4日ほど取り組んでいました。
2016年からは博士課程に進学し、YouTubeチャンネル『suisuiプロジェクト』がスタートしました。その後、2018年の博士課程3年目の時に神戸に移住し、妻との同棲生活が始まりました。
神戸に来てからは、大学の勤務も始まり多忙となったため、リハビリはほとんどできていない状況でした。妻と母により週に1回程度、歩行器を使った立つ練習などを行ないました。
そして、2020年3月から、ご縁あって神戸ロボケアセンターにてリハビリが開始となります。はじめは筋力トレーニングからスタートし、10月から装着型サイボーグ・HALを使った歩行練習がスタートしました。
2週間に1回のリハビリではありますが、HALを使いはじめてからの自分の身体の変化を結構感じています。立って歩くことは、体にいいんだなということが実感できます。一般の病院や家ではなかなか出来ることではないので、非常に良い経験となりました。
再生医療に挑戦!
この3月にYouTubeの動画にてコメントを発表されていましたが、ちんさんはついに “再生医療” を受けられることになったのですね!
そうなんです。もう一度立って歩くことを目指し、再生医療を受けることにしました。
僕が今回受ける治療は、自己脂肪由来の間葉系幹細胞を用いた再生医療です。お腹の脂肪細胞を取り出して、その脂肪細胞に含まれている幹細胞を採取します。それを培養することで数を増やし、体内に戻すという治療です。
このような画期的な治療ですが、実は再生医療というのは、細胞を体内に戻しただけでは良くなりません。これからも、リハビリを継続していくことが重要になります。
再生医療はまだまだ試行錯誤の段階だと思っています。それはリハビリも一緒で、リハビリをするスタッフの皆さんも、自分のやっていることが本当に再生医療と組み合わせて効果があるのか、わからないと思うんですよね。
でもそれってやってみないと分からない事なので、僕はそこに自分の身体を使ってもらうことに意味を感じています。例え結果が出なかったとしても、それが次に繋がるといいなと思います。積み重なっていけば、5年後、10年後に僕と同じように脊髄損傷になった人たちのためになると思うからです。再生医療後のリハビリが確立されていくことを願っています。
そんなところが、今の僕のモチベーションですね。
治療の効果としては、立って歩くこともそうですが、自律神経系(排泄)が良くなったらいいなという思いも持っています。
医療技術の進歩に対する貢献が、ちんさんの再生医療を受ける強いモチベーションとなっているのですね。素晴らしいです。
ちんさんの、現在のリハビリの目標はなんですか?
そうですね、実は、この10月に子どもが生まれる予定なのですが、生まれてきた子どもと、公園に行って遊びんだり、膝にのっけたり、幼稚園の送り迎えをしたりしたいですね。
現在は、妻の身体に負担をかけることが少しでも減らせるよう、また、将来子どもが生まれた後の生活も見据えて、自分でできることをさらに増やそうと頑張っているところです。例えば車の乗り降りなど。
僕は昔から、リハビリ以外で必ず目標を持つようにしています。学生の頃は復学でしたし、院生の頃は教育実習だったりYouTubeだったり、とにかく、小さくても構わないからリハビリ以外で目標を持つことは大事だと思います。
リハビリをするその先の目標が大切だという事ですね。
常に新たな目標を掲げ、前向きに継続されていることが本当に素晴らしいです。
“情報がある” 尊さ
いつも前向きで強い信念を持ち、周りの方々にも勇気や希望を与え続けられているちんさんですが、“辛いな” と感じるのはどんな時でしたか。
また、そのような状況から希望がもてた瞬間などもあれば、教えてください。
やはり、病院を退院して最初の半年間は大変でした。自分も含め、家族みんながいっぱいいっぱいで、人の手を借りながらなんとか乗り越えたという感じでしたね。
この時大事なのは、“家族だけで頑張らない” ということだったかなと思います。他人が入ることで気分転換にもなりますしね。
希望がもてた瞬間としては、自分より先に受傷している車椅子ユーザーの先輩との出会いですね。その方とは家族ぐるみの付き合いだったのですが、家族で家に遊びに行かせてもらった時に、一人でスイスイ動いて生活されていた姿がとてもに印象的でした。
“自分も頑張ればこうなるんだ” と希望を持つことができました。なので、ロールモデルがいるというのは大事なことなのだと、この時から感じています。
そういうこともあって、僕はYouTubeでの発信を行なっています。頸髄を損傷した直後に絶望のどん底にいた当時の自分を想像しながら、できるだけ分かりやすく、見てくれる方のためになることを最優先し、動画制作に真摯に向き合っています。
メッセージ
もしも今、過去の自分に声がかけられるとしたら、一体どんな言葉を送りますか。
そうですね、その選択は “間違ってないよ” って伝えたいです。
その先のことって正直わからないじゃないですか。もしかしたら、あとあと後悔することもあるかもしれないけど、自分でこれで行くって決めたら、信じて突き進んでいっていいと思います。
今の僕に不安がないって言ったら嘘になるけど、意外となんとかなるもんだよ、って。
ありがとうございます。当時のちんさんが聞いたら、とても安心されるでしょうね。
最後に、同じようにリハビリに励まれている方に向けて、ちんさんから一言、メッセージをいただいてもよろしいでしょうか。
僕は、リハビリは嘘をつかないと思っています。やったらやった分だけ、いつかは必ず返ってくると思うんです。
すぐには効果が出ないかもしれませんが、実際に、10年たってチャンスが来ることだってあります。
少しでも良くなろうとか、がんばろうと思っていることあるならば、その思いを信じて、前に進んでいってもらいたいです。
ちんさん、素敵なメッセージをありがとうございます。
強い信念を持ち、社会のために行動し続けるちんさんの姿は、多くの人に勇気や希望を与え、次なる一歩を踏み出す後押しとなっていることと思います。
常に好奇心を大切に、前向きに生き続けるその姿に、私自身いつもパワーをもらっています。
これからも、ちんさんのさらなるご活躍と、ちんさんそしてご家族の皆さんの幸せをお祈りしております。
ちんさん、本日はありがとうございました!
<ちんさんの発信媒体>
・YouTube「suisui project」
・Twitter
・Instagram
・Facebook
SNSでは、車椅子ユーザー目線の気づきを発信されています。また、ちんさんが通われていた神戸ロボケアセンターの記事はこちらから。
以上、本日は19歳当時の事故で頸髄を損傷するも、現在多方面で大活躍中の「中村珍晴さん(愛称:ちんさん)」を紹介させていただきました。
一人でも多くの方に、ちんさんの素敵な想いがお届けできれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!
かわむーでした。
※ 今回は、ちんさんのリハビリの歩みについて紹介させていただきました。ご自身の身体の状態や周辺環境、状況によって様々な違いもあることが予想され、必ずしも今回と同じようなリハビリが最善とは限りません。どのようなリハビリが良いかはご自身でもしっかりと調べ、主治医と相談したうえで取り組んでいくことをおすすめいたします。
※この取材は、本人の同意を得て行なっています。本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒宜しくお願い申し上げます。
写真提供:山本夏希
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