【当事者の声】骨肉腫と大腿切断を経て、義足パパとして社会に想いを届ける|大塚一輝さん

みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!

今回は、岐阜県にお住まいの大腿義足ユーザーであり、「義足の未来を変える会」代表の大塚一輝さんにお話を伺いました。

高校生のときに発症した骨肉腫。そこから始まった長い闘病生活とリハビリの日々。そして33歳で迎えた大腿切断という大きな決断。さまざまな葛藤や痛みと向き合いながら、大塚さんはいま「義足パパ」として、自身の経験を社会へ届ける活動を続けています。

この記事では、闘病生活のはじまりから、大腿義足とともに歩む現在、そして社会へ届けたい想いまで、大塚さんの歩みを丁寧にたどっていきます。

※「大腿義足とリハビリテーション」に焦点を当てた大塚さんの取材記事はこちら

闘病生活のはじまり

大塚 一輝(おおつか・かずき)さん
1989年6月30日生まれ。岐阜県岐阜市出身。二児の父。
高校2年生のとき、右膝に骨肉腫を発症。約8ヵ月にわたる抗がん剤治療と右膝の人工関節置換術、リハビリを経て18歳で復学。19歳で仕事を始め、26歳で結婚。人工関節の感染と長く向き合うなか、33歳の夏、高熱をきっかけに入院。同年10月、右大腿切断の手術を受け、その後は大腿義足を装着しながら生活を送る。35歳のときに「義足の未来を変える会」を立ち上げ、現在は当事者目線での情報発信や制度改善の働きかけに力を注いでいる。


かわむー
かわむー

大塚さんが義足での生活を始めるきっかけとなったのは、高校生のときに診断された「骨肉腫」というご病気だったと伺いました。

はじめてそのことを告げられたときのことや、当時の入院生活のご様子など、覚えている範囲でお聞かせいただけますか。


大塚さん
大塚さん

高校2年生の冬、17歳のときでした。右膝に違和感があり、はじめは「肉離れかな?」と思い、近くの接骨院で電気治療を受けていました。でも、なかなか良くならず、腫れも引かない。そのため、私は家族に勧められて整形外科を受診しました。

MRIを撮ったところ、「黒い影がある」と言われ、そのまま大学病院へ。そこで「悪性腫瘍の可能性がある」と告げられ、すぐに入院することになりました。

そこから、約8ヵ月間の抗がん剤治療が始まります。3週間を1クールとする治療を全4クール、それを2回行いました。その合間には、右膝の腫瘍部分を人工関節に置き換える手術も受けました。

当時、切断という選択肢も示されましたが、両親や主治医の先生と話し合い、「まだ残せる可能性があるなら、切断は最後の手段にしよう」となり、人工関節を選んだのです。


かわむー
かわむー

突然の診断、そして入院治療に手術。まだ17歳という若さで、そのような出来事に向き合われていたことを思うと、胸が締め付けられます。

当時、大塚さんはどのようなお気持ちで日々を過ごされていましたか? いま振り返って思い出されることがありましたら、お聞かせください。


大塚さん
大塚さん

正直なところ、そのときは「骨肉腫」と言われても、あまり実感が湧いていませんでした。ただ、抗がん剤治療が始まると、吐き気やだるさが続き、日に日に体力が落ちていくのを感じるようになりました。何度も心が折れそうになったのを覚えています。

思春期ということもあり、気持ちのやり場がなく、親や担当の先生に強くあたってしまったこともありました。

抗がん剤治療を受けていても、確実に治るかどうかわからない。その先の見えない状況が、とてもつらかったですね。

「また再発するのではないか?」という不安も、ずっと心のどこかにありました。


がんの治療とリハビリ

かわむー
かわむー

治療と並行しながらの日々だったかと思いますが、そのなかで取り組まれていたリハビリについても、教えていただけますか。


大塚さん
大塚さん

春に膝の手術を受けてからは、抗がん剤治療と並行しながらリハビリを行いました。

抗がん剤治療の周期(3週間)に合わせて、リハビリも進んでいきます。最初の1週間は体調が悪く、ほとんど動けません。2週目はベッドの上で足を動かしたり、筋トレをしたり。そして3週目になってようやく、リハビリ室で体を動かすことができる、という流れでした。

リハビリに取り組みたい気持ちはあるのに、思うように体がついてこない。食事も十分にとれず、体重は10キロほど落ちました。

大学病院を退院したあとは、自宅近くのリハビリ病院へ転院しました。30分のリハビリを1日2回行い、「できるだけ早く家に帰る」ことを目標に、空いている時間や休日も院内を歩くなど、自主練習にも力を入れました。

転院当初は車いすでしたが、リハビリを続けるうちに杖を使って歩けるようになり、退院の日を迎えました。自宅は、部屋を2階から1階へ移し、必要なところに手すりをつけてもらうなど、生活環境を整えてもらいました。

そして、18歳の秋に復学。教室を1階に変えてもらったり、友人が荷物を持ってくれたりと、さまざまな配慮をいただきながら再び日常が動き出しました。


かわむー
かわむー

できることを探しながら、リハビリに向き合われていたのですね。

その後、高校をご卒業されてからは、どのような日々を歩まれたのでしょうか。


大塚さん
大塚さん

高校を卒業したあと、19歳で公務員試験に合格し、市役所で仕事を始めました。母親の勧めで受験し、障害者採用として事務の仕事を担当し、26歳までの約7年間勤めました。

その後、幼い頃から憧れていた航空機に関わる仕事がしたいと、航空機メーカーへ転職。現在は、総務の仕事をしています。

ちょうどその頃、妻と出会い、半年ほどで結婚しました。27歳で父親になり、いまは娘が2人、家族4人で暮らしています。

大塚さんとご家族(写真提供:ご本人)


大腿切断という選択

かわむー
かわむー

ご家族との暮らしやお仕事に向き合いながら、日々を積み重ねてこられた様子が伝わってきました。

そんな歩みのなかで、かつて「最後の選択肢」とされていた決断に、改めて向き合う時が訪れたのですね。

どのような出来事やお気持ちがあり、切断という決断に至られたのか、差し支えのない範囲で教えてもらえますか。


大塚さん
大塚さん

実は、人工関節の部分にはたびたび炎症や感染が起こっていて、発熱や腫れを繰り返していたんです。

「将来、切断が必要になるかもしれない」と言われながら、抗炎症薬でなんとか抑えつつ過ごす日々が、12年ほど続きました。

33歳の夏、39度近い高熱が出ました。はじめは風邪かと思い近くのクリニックを受診したのですが、2日たっても熱は下がりません。検査の結果、炎症の数値が大きく上がっており、「人工関節の感染が原因だろう」ということで、そのまま大学病院に運ばれ入院となりました。

そこから約3ヵ月間、1日3回の点滴治療が続きました。治療を続けても数値は安定せず、ゴールが見えない時間が流れていきます。そんな中で、「このまま点滴を続けるより、どこかで切断を考えたほうがいいのではないか」という話が、少しずつ出るようになりました。

一度は数値が下がったこともありましたが、再び悪化する可能性が高いと言われ、これ以上、身体に負担をかけない方法として、右膝上での切断を決意。「いつまで入院が続くのか分からない」という不安に区切りをつけるための選択でもありました。

ただ、切断を決めたときも、手術の前日も、私は涙が止まりませんでした。

前日、先生が病室に来てくださり、「本当に切断でいいんだね」と確認してくださったあの瞬間は、いまも心に強く残っています。



かわむー
かわむー

12年という本当に長い間、感染と向き合いながら過ごされてきたこと、そしてその先に「切断」という選択があったこと。お話を伺いながら、その重みが伝わってきました。

切断を覚悟するまで、たくさん悩まれたのではないかと思います。大塚さんの気持ちを後押ししてくれた出来事や、背中をそっと押してくれたような決め手は、何かあったのでしょうか。


大塚さん
大塚さん

決断するまで、本当に葛藤の日々でした。できることなら、足を残したい。その思いが強く、1週間ほど悩み続けました。

切断をすれば、もう元には戻れません。私ひとりでは決めきれず、妻や主治医の先生と、何度も何度も話をしました。

整形外科で看護師をしている妻が、さまざまな情報を調べてくれて、「切断という選択も、前向きに考えた方がいいかもしれないね」と、そっと背中を押してくれました。なかでも、「義足になるなら、体力のある若いうちの方がいい」という言葉は、私の心に強くささりました。

年齢を重ねてからだと、義足で歩くことが難しくなることも多いと聞きました。残りの人生を考えたときに、「いま決断することが、一番前向きな選択なのかもしれない」と、少しずつ思えるようになったんです。


幻肢痛を乗り越えて

かわむー
かわむー

奥さまや先生との対話を重ねるなかで、少しずつ気持ちが固まっていったのですね。

実際に手術を受けられたあとは、体調等いかがでしたか?


大塚さん
大塚さん

正直、術後は本当に大変でした。

いちばんつらかったのは「幻肢痛」です。切断前から話は聞いていて、ある程度覚悟はしていたのですが、実際に体験すると想像以上でした。

ないはずの足が熱く感じたり、ビリビリとしびれるような感覚が続いたり。うまく言葉にできない痛みに襲われました。

薬で緩和する方法もありますが、副作用への不安もあり、私は服薬せずに様子を見ることにしました。

幻肢痛は、切断直後がいちばん強く、2〜3ヵ月ほど経つ頃には、身体が少しずつ慣れてきたように思います。

いまでも時折痛みはありますが、生活に支障が出るほどではありません。ただ、これはこれからも付き合っていくものなのだろうなと思っています。

同じように切断された方のお話を聞くと、何十年経っても夜間の痛みで眠れない方もいるそうで、個人差が大きいんだなと感じます。


切断手術直後のお写真(写真提供:ご本人)


かわむー
かわむー

いまは義足を装着して生活されている大塚さんですが、切断後のリハビリは、どのように進んでいったのでしょうか。


大塚さん
大塚さん

切断から1ヵ月ほどで、大学病院を退院しました。その後は、自宅近くのクリニックに通いながら約2ヵ月間リハビリに励みました。

義足は、切断後のむくみが落ち着いた2ヵ月ほど経ってから作成を開始しました。

完成した義足を初めて履いたときは、驚くほど痛かったのを覚えています。断端で義足の重さを支え、さらに体重もかける必要があり、とてもつらかったです。

「本当に歩けるようになるのだろうか…」と不安になりました。



大塚さん
大塚さん

また、義足の適合は日々変わります。少し体重が増減するだけでも合わなくなってしまいますし、切断後しばらくはむくみも出やすく、調整がとても難しいと言われています。

そこで強く感じたのは、切断後のリハビリは理学療法士さんだけでなく、義肢装具士さんとの関わりが重要だということです。

知識や技術をもった義肢装具士さんとの出会い、そして信頼関係の構築が必要になります。

大塚さんの義足づくりを支えている、義肢装具士・橋場さん(松本義肢製作所)。本記事の下部で、橋場さんのインタビュー記事のリンクを紹介しています。


「義足パパ」の声を届ける

かわむー
かわむー

義足での生活が始まってから、大塚さんは「義足パパ」として情報発信にも取り組まれているそうですね。

活動を始められたきっかけや、そこに込めていらっしゃる思いについて、ぜひ教えてください。


大塚さん
大塚さん

2024年の夏に「義足の未来を変える会」を立ち上げ、義足パパとしてWebやSNSでの発信活動、講演活動を始めました。

きかっけは、私自身が切断を迫られたときのことです。義足についてたくさん調べましたが、切断に至るまでの過程や、切断後の生活について、当事者目線で発信している情報はほとんど見つかりませんでした。

目に入るのは、パラリンピック選手のような「すごい人」の話ばかりで、なかなか自分事として受け止めることができなかったんです。

「あのとき、同じ立場の人のリアルな声があったら、どれだけ心強かっただろうか」。その思いが、自分が発信する側になろうと考えたきっかけでした。


いまは、義足ユーザーが少しでも前向きになれるような情報を届けること、そして、これから切断を考えている方や悩んでいる方にとって安心につながる発信を心がけながら、活動しています。

SNSには、実際に悩まれている方やご家族、一般の方からも相談をいただくようになりました。

また、義足の「見え方」も変えていきたいと考え、義肢装具士でデザイナーでもある方と一緒に、藍染めの義足カバーを作りました。

義足をあえて見せることで、「かっこいいね」と声をかけてもらえるような取り組みです。義足を隠すのではなく、ファッションの一部のように楽しめたらという思いが込められています。


学校で講演される大塚さん(写真提供:ご本人)
藍染めで仕立てた、オリジナルの義足カバー
「『義足ってかっこいい』『障害は個性』という新しい価値観を届けていきたい」と語る大塚さん


大塚さん
大塚さん

私が目指しているのは、義足ユーザーが特別な存在として見られるのではなく、社会の中でごく自然に暮らせる未来です。

「障害」や「義足」と聞くと、まだネガティブに感じる人もいるかもしれません。

だからこそ、当事者である私たちが社会にでて声を届け続けることで、少しずつ多様性への理解が広がっていく。そうして、どんな方も暮らしやすい社会につながっていったらと願っています。


かわむー
かわむー

情報を届け続けた先にある世界観、とても素敵だなと感じました。

大塚さんが運営されているブログ「義足パパの歩み」には、義足の種類や価格の目安、切断後のリハビリのことなど、当事者の方が知りたい情報がとても丁寧にまとめられています。

本記事の下部にリンクを掲載していますので、ぜひあわせてご覧ください。


社会の意識を変える挑戦

かわむー
かわむー

これから先、さらに力を入れていきたいことや、挑戦してみたいと考えられていることはありますか?


大塚さん
大塚さん

これからさらに力を入れていきたいのは、講演活動や制度改善に向けた働きかけです。

講演では、小学生や中高生、大学生、そして社会人の方々に向けて、これまでの歩みをお話ししています。「明るく、自分らしく生きること」を軸に、命のこと、家族のこと、感謝や挑戦など、さまざまなテーマでお伝えしています。

小学生には、実際に義足にも触れてもらう体験型の講演も行っています。子どもたちはとても素直で、義足を見て「これなに?」と興味津々で聞いてくれます。その姿を見るたびに、伝える意味を感じます。うちの子どもたちも義足に興味をもってくれて、「将来は義肢装具士になってパパの義足を作ってあげる」とか、「看護師になる」と話してくれることもあります。

また、制度面の課題も強く感じています。義足は身体の変化によって適合が変わるにもかかわらず、保険適応されたソケットの作り替えは年1回までと決められているなど、当事者の実情に合っていない部分も少なくありません。

2025年1月には、厚生労働省へ改善要望書を提出し、全国の義足ユーザーの声を届けました。議員さんとの意見交換も行っています。

これからも、当事者にしかわからないことを、きちんと声にして伝えていきたいと思っています。


かわむー
かわむー

「義足と直接関わりのない方にこそ知ってもらいたい」という大塚さんのまっすぐな思いが伝わってきました。

障害をもつ人々への理解が広がったその先にある、「誰もがありのままに暮らせる社会」。大塚さんが思い描くその世界観にとても希望を感じます。

「もともと前に出るタイプではないけれど、誰もいないなら自分がやろう」と語られる姿からは、やさしさの奥にある確かな強さがにじんでいました。

リハノワはこれからも、大塚さんのご活躍を心から応援しております。

本日は、貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました。



かわむー
かわむー

<関連記事 / SNS>

・【リハノワ】大腿義足とリハビリテーション|大塚一輝さん
・【リハノワ】松本義肢製作所・義肢装具士 橋場さん取材記事

小学校での講演_活動報告(ブログ「義足パパの歩み」より)
小学校での講演_動画(YouTube「義足パパ かず」より)
厚生労働省へ改善要望_報告(ブログ「義足パパの歩み」より)

・ブログ「義足パパの歩み
Instagram「義足パパ
かず」
YouTube「義足パパ かず」

ぜひ合わせてご覧ください。



以上、今回は、岐阜県にお住まいの大腿義足ユーザーであり、「義足の未来を変える会」代表の大塚一輝さんにお話を伺いました。

ひとりでも多くの方に、大塚さんの素敵な想いと魅力がお届けできれば幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!


かわむーでした。

「大腿義足とリハビリテーション」に焦点を当てた大塚さんの取材記事はこちら
義肢装具士・橋場さんの記事はこちら


この取材は、ご本人様から同意を得て行なっています。本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒宜しくお願い申し上げます。

リハノワは、株式会社Magic Shields様をはじめとするパートナー企業のみなさま、個人サポーターのみなさま、読者のみなさまのあたたかな応援に支えられて活動しています。これからも、リハビリの輪が広がっていくよう、みなさまからのご支援とご声援をいただけましたら幸いです。

※取材先や取材内容はリハノワ独自の基準で選定しています。リンク先の企業と記事に直接の関わりはありません。

撮影=上垣内 寛
取材・文=河村由実子(かわむー)

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