みなさんこんにちは、リハノワのかわむーです!
今回は、オーストラリア・ブリスベンで理学療法クリニック「Moto Physio」を運営する、理学療法士の葛山元基さんにお話を伺いました。
葛山さんは、高校時代の怪我をきっかけに理学療法士を志し、スポーツ領域で経験を重ねたのち、30歳でオーストラリアへ。現地の理学療法士免許を取得し、現在は自身のクリニックで「楽しめるカラダ」づくりに取り組む傍ら、サッカー選手としてもプレーを続けています。
本記事では、サッカーとともに歩んできたこれまでの道のりをたどりながら、日本とオーストラリア、両方の現場を知るからこそ見えてきたリハビリテーションの魅力と、葛山さんが大切にする「楽しめるカラダに」という想いに迫ります。
◆ 葛山 元基(ぐすやま・もとき)さん
理学療法士(日本)/ Physiotherapist(オーストラリア)/Moto Physio 代表
1983年、兵庫県生まれ。高校時代は強豪サッカー部に所属し、怪我をきっかけに理学療法士を志す。国際医療福祉大学卒業後、船橋整形外科病院に8年間勤務し、柏レイソルのメディカルサポートやスポーツ障害の研究などに携わる。2013年にオーストラリアへ渡り、2017年にキャンベラ大学大学院を修了。同国の理学療法士免許を取得し、ブリスベンで「Moto Physio」を開業。現在も理学療法士として活動する傍ら、サッカー選手としてプレーを続けている。

サッカーに夢中になった少年時代

葛山さんのこれまでをたどるうえで、サッカーは欠かせない存在なのではないかと感じています。まずは、葛山さんとサッカーとの出会いから、お話を聞かせていただけますか?

サッカーを始めたのは、小学4年生のときです。仲の良かった友だちがサッカーをしていたことがきっかけでした。一流を目指す選手のなかでは、かなり遅いスタートだったと思います。
小学6年生で京都から千葉県流山市へ引っ越し、中学生になると柏レイソルA.A.TOR’82というクラブチームに入りました。週5日の練習があり、学校が終わると自転車で45分かけて通っていました。
高校もサッカーで進学し、強豪校として知られる習志野高校へ。「サッカーで活躍したい」という思いで選んだ学校でしたが、振り返ると、高校時代が一番大変でしたね。
自宅から学校までは片道1時間50分ほど。朝5時に家を出て、電車で少し寝て、学校に着いたら朝練。放課後も練習をして、帰宅するのは夜9時頃でした。ご飯を食べて寝たら、またすぐに朝が来る。そんな毎日でした。

習志野高校といえば、全国屈指のサッカー名門校ですよね! 厳しい環境でプレーするなかで、いまでも印象に残っていることはありますか?

入学して3ヵ月くらいで、「自分はプロにはなれないな」と悟ったのを覚えています。当時のチームには、のちにJリーグで活躍するような選手が何人もいて、レベルがまったく違いました。
中学生まではそれなりにできると思っていたんですけど、外の世界に出て初めて、「これが、全国のレベルなんだ」と思い知らされました。
なかなかレギュラーにはなれませんでしたが、それでもサッカーが好きだったので、辞めようとは思いませんでした。
3年生になって、ようやく試合に出られるようになりました。


怪我をきっかけに、リハビリの世界へ

思うようにいかない時期がありながらも、やっぱりサッカーが好きだったんですね。
そんな高校時代に経験した怪我が、葛山さんが理学療法士をめざすきっかけにもなったとお聞きしています。その当時のことを、詳しく教えていただけますか?

高校2年生の1月、自分たちの代になって、初めて試合に出られることが決まったんです。ところが、その2日前の紅白戦で膝の内側側副靱帯を損傷し、全治3〜4ヵ月の怪我をしてしまいました。ようやくつかんだ出場の機会だったので、とても悔しかったのを覚えています。
当時、チームには船橋整形外科病院の理学療法士が週に2〜3回来ていて、試合にも帯同してくださっていました。怪我をしてからは、リハビリのメニューを考えてもらい、復帰後もテーピングを巻いてもらうなど、本当に親身になって支えていただきました。
リハビリには時間がかかりましたが、3年生になった5月頃には試合に復帰することができました。自分が怪我をしたことで、選手のすぐそばで復帰までを支える理学療法士という仕事を知り、「自分も理学療法士になりたい」と思うようになりました。
高校に入った頃から大学でサッカーを続けることは考えていなかったので、3年生の春頃には、理学療法士の道に進むことを決めていました。
当時はいまほど養成校も多くなく、僕自身も12月の選手権までサッカーに打ち込んでいたこともあり、一浪して国際医療福祉大学へ進学しました。
スポーツ領域の理学療法士として

大学へ進学してからは、どのような学生生活を送られていたのでしょうか?

大学では勉強もしながら、サッカーも続けていました。たまたま1学年上に元横浜F・マリノスの選手がいて、現役を引退した後のセカンドキャリアとして、理学療法士をめざしていたんです。そのほかにも全国大会を経験した選手が何人かいて、週4回くらいはサッカーをしていました。
勉強は真面目に取り組んでいましたが、「勉強が大好き」というタイプではなかったので、友人と過ごしたりサッカーをしたり、学生生活そのものを楽しんでいたように思います。
卒業後は大学院への進学も考えていましたが、「まずは臨床で経験を積んでからでもいいのでは」とアドバイスをいただき、高校時代にお世話になった船橋整形外科病院へ就職しました。

高校時代に支えてもらった場所が、今度は理学療法士としてのスタート地点になったのですね! 素敵なご縁ですね。
船橋整形外科病院では、どのような経験を積まれたのですか?

当時は、とにかく臨床も勉強も研究も、夢中になって取り組んでいました。入職後は一人ひとりにスーパーバイザーがつき、僕も指導してくださった先輩のもとで、臨床について学びながら研究にも取り組みました。
入職3ヵ月後くらいから研究に携わるようになり、1年目の12月には学会発表も経験しました。最初の発表は決してうまくできたとは言えませんでしたが、若いうちから臨床だけでなく、研究や発表まで経験できたことは、その後につながる大きな財産になったと思います。
船橋整形外科病院には8年間勤務し、3年目からは柏レイソルのメディカルサポートにも携わるようになりました。主に膝や足の怪我を担当し、フィジカルチェックや術後のリハビリなどを通して、プロのサッカー選手を支える経験もさせていただきました。

ジュニア時代にお世話になった柏レイソルに、今度は理学療法士として関わることになったのですね。しかも入職3年目からとは…! ここでもまた、ご縁がつながっているのを感じます。
プロのサッカー選手を支える現場は、華やかに見える一方で、厳しさもあるのではないかと想像します。実際にその世界に関わってみて、いかがでしたか?

高校時代の友人や先輩、後輩にプロになった選手が多かったので、最初は「Jリーガーを診ている」というより、「身近な人を支えている」ような感覚でした。
ただ、実際に関わっていくと、プロの世界の厳しさを感じることはたくさんありました。活躍しているときは華やかに見えますが、結果や怪我によって状況は大きく変わります。精神的に苦しむ選手や、引退後のキャリアに悩む選手も間近で見てきました。
だからこそ、僕は理学療法士として「自分にできることを、きちんとやる」ことを大切にするようになりました。選手がグラウンドに戻るために必要なリハビリを、専門性をもって提供する。
一方で、メンタルなど専門外のことは、その領域の専門家につなぐ。一人ですべてを抱えるのではなく、それぞれが専門性を発揮しながら、チームで選手を支えることの大切さを学びました。
そのためには、専門職同士でしっかりコミュニケーションを取り、必要な情報を共有することも欠かせません。こうした経験は、オーストラリアで働くいまにも活かされています。

日本からオーストラリアへ

日本では、臨床や研究に取り組みながら、プロサッカー選手のサポートにも携わるなど、順調にキャリアを重ねていらっしゃったように感じます。
そこから海外へ目を向けるようになったのは、どのようなきっかけがあったのですか?

船橋整形外科病院に入職して3年目くらいから、第5中足骨疲労骨折、いわゆるジョーンズ骨折の研究に取り組むようになりました。
柏レイソルのドクターと一緒に研究を続けながら、毎年のように海外の学会で発表する機会をいただいていたんです。スペインやデンマーク、フランス、ドイツ、韓国など、7〜8カ国くらい行かせてもらったと思います。
なかでも印象に残っているのが、スペインで参加した学会です。そこで研究が表彰され、オーストラリアやイギリスなど、いろいろな国の理学療法士と話す機会がありました。
話していると、日本では理学療法士に開業権がないことや、待遇、英語で発信される研究の少なさなどについて驚かれたんです。当時の僕の英語力では、相手の意図をすべて正確に理解できていたわけではないと思います。それでも、「日本はなぜ開業権がないんだろう」「海外では理学療法士はどんな働き方をしているんだろう」と、初めて日本の外から自分たちの仕事を見るようになりました。
ちょうどその頃、柏レイソルとの病院契約が終了したことも大きかったです。プロの世界なので、契約が変わること自体は当然なのですが、僕自身は若かったこともあり、「組織や契約に頼るだけではなく、自分自身に力をつけなければいけない」と強く感じたんです。
だったら、開業権のある国で理学療法士として働いてみたい。英語も身につけて、自分の力でどこまでできるのか試してみたい。そんな思いが、少しずつ強くなっていきました。

海外の理学療法士との出会いや環境の変化をきっかけに、「自分の力で挑戦してみたい」という思いが芽生えていったのですね。
海外のなかでも、オーストラリアを選ばれたのは、何かきっかけやご縁があったのでしょうか。

オーストラリアとは、以前からご縁がありました。大学時代にお世話になった先生が現地の大学院で学ばれていたほか、僕自身も大学4年生のときにブリスベンやゴールドコーストを訪れ、クイーンズランド大学を見学していました。
そこで、理学療法士の専門性や仕事の幅広さに触れ、とても刺激を受けたんです。開業権があることにも魅力を感じました。
イギリスやカナダ、アメリカなども検討しましたが、働き方や気候なども含めて考え、最終的にオーストラリアを選びました。


ここからどのようにオーストラリアで理学療法士になられたのか、とても気になります。ぜひ、その道のりについてもお聞かせいただけますか。

2013年に船橋整形外科病院を退職し、オーストラリアへ渡りました。現地で理学療法士になるため、まずはブリスベンの語学学校で英語を学ぶところからのスタートでした。
一番の壁は、やっぱり英語です。大学院への進学には、国際的な英語能力試験「IELTS(アイエルツ)」で7.0が必要でしたが、最初のスコアは4.5。「海外に行く」と意気込んでいたものの、現実を突きつけられましたね。
それでも、毎日コツコツ勉強を続けました。勉強が得意だったわけではありませんが、サッカーで培った体力と、続ける力はあったんだと思います。
渡豪後も語学学校に通いましたが、10ヵ月ほど勉強しても必要なスコアには届きませんでした。その頃に妻の妊娠が分かり、一度日本へ帰国。働きながら英語の勉強を続けていましたが、「このまま日本で暮らすのかな」と、諦めかけた時期もありました。
そんなとき、キャンベラ大学から連絡が来たんです。大学指定の10週間の英語コースを修了すれば、大学院への入学を認めてもらえるという内容でした。
「これを逃したら、もうチャンスはないかもしれない」と思い、妻にも背中を押してもらって、今度は一人でキャンベラへ向かいました。
そして無事に英語コースを修了し、キャンベラ大学大学院へ進学。ようやく妻と子どもにもオーストラリアへ来てもらうことができました。
最初にIELTSを受けてから大学院へ入るまで、2年半から3年ほどかかりましたね。

2〜3年かけて、ようやくたどり着いた大学院だったのですね。諦めずに挑戦を続けた葛山さんはもちろん、そばで背中を押してくださった奥さまの存在も、とても大きかったのではないかと感じました。
実際に大学院での学びが始まってからは、いかがでしたか?

大学院に入れたからといって、そこから楽になったわけではありませんでした。クラスでアジア人は僕一人。ネイティブの学生が話していることを聞き取るのも、自分の考えを伝えるのも難しくて、授業についていくだけで精一杯でした。再試験を受けながら、なんとか一つずつ乗り越えていった感じです。
それでも、仲良くしてくれる学生が何人かいて、分からないことを教えてくれたり、授業についていけるよう助けてくれたりしました。周りの人には本当に恵まれましたね。
そして、もう一つ大変だったのが、お金です。学費は年間で約450万円。想像以上のスピードで貯金が減っていき、途中から妻と子どもには日本へ戻ってもらいました。妻は看護師として働きながら仕送りをしてくれて、僕はシェアハウスに移り、とにかく節約して暮らしました。教会のチャリティーでパンをいただくこともあって、まさか30代になって「お金がなくてお腹が空く」という経験をするとは思ってもいませんでした。
そんな大変な日々でしたが、大学院での学びはとても刺激的でした。実習では整形外科だけでなく、神経、呼吸、循環器、救急など、さまざまな現場を経験しました。理学療法士が画像検査をオーダーしたり、装具を処方したりするなど、日本との役割の違いにも驚きました。
英語も、お金も、勉強も、本当に大変でした。でも振り返ると、あの時期に一つずつ乗り越えた経験が、オーストラリアで理学療法士として働くいまの土台になっていると思います。


ちなみに、そんな大学院生活のなかでも、サッカーは続けていました。
現地のセミプロクラブでプレーするようになり、子どもが生まれたタイミングで一度離れた時期もありましたが、ご縁にも恵まれて、43歳になったいまも3部相当のリーグでプレーを続けています。
オーストラリアでも、サッカーが人とのつながりや居場所をつくってくれたように思います。




Moto Physioがめざす「楽しめるカラダ」

大学院を卒業し、いよいよオーストラリアで理学療法士としての一歩を踏み出されたかと思います。
「Moto Physio」を開業するまでの道のりについて、ぜひお聞かせいただけますか。

オーストラリアの理学療法士免許を取得した後、家族とキャンベラからブリスベンへ移りました。
まず苦労したのが、就職先探しです。オーストラリアでの臨床経験がなく、ビザも安定していなかったので、30ヵ所ほど履歴書を送っても、ほとんど返事がありませんでした。
なんとか一つのクリニックに採用してもらいましたが、働き始めてもなかなか予約が入らず、生活が安定するまでには半年ほどかかりました。それでも徐々に患者さんが増え、「いつか自分のクリニックをもちたい」と開業の準備を始めました。
そして2017年、「Moto Physio」として個人での診療をスタートし、2021年に法人化しました。開業当初は週10人ほどだった患者さんも少しずつ増え、現在は週30〜40人、多いときには45人を超える方を診療しています。







本当に、一つひとつ積み重ねながら、いまの「Moto Physio」をつくられてきたのですね。
日々患者さんと向き合ううえで、葛山さんが大切にされていることをぜひ教えてください。

大切にしているのは、「できることと、できないことを、きちんと伝える」ことです。
まず、身体がいまどのような状態なのか、回復までにどれくらいかかるのか、そのためにどんな治療ができるのかを、できるだけ分かりやすく説明します。何でも治せるわけではないので、エビデンスに基づいて、分かっていることを正直に伝えるようにしています。
そして、自分だけで抱え込まないことも大切にしています。オーストラリアでは理学療法士に開業権があり、画像検査をオーダーできるなど、裁量が大きい分、責任も伴います。
実際に、腰痛で来院された方に別の病気が疑われ、医師につないだこともありました。自分で対応できないことは、その領域の専門家につなぐ。その見極めも、理学療法士の大切な役割だと思っています。


柏レイソルの選手を支えていた頃にお話しされていた、「自分にできることを、きちんとやる」という姿勢が、いまの実践にも活かされているのですね。できることと、できないことを見極め、必要なときにはほかの専門家につなぐ。その一貫した姿勢がとても印象的です。
最後にもう一つ、ぜひお聞きしたいです。日本とオーストラリア、両方の現場を経験された葛山さんは、いま「リハビリテーション」というものを、どのように捉えていらっしゃいますか。

僕にとってリハビリテーションは、その人が人生を楽しめる身体をつくることだと思っています。
「Moto Physio」の看板にも、「楽しめるカラダに」という言葉を掲げています。
競技復帰をめざすスポーツ選手もいれば、「旅行を楽しむために、もっと歩けるようになりたい」という方もいます。何をしたいのか、何を楽しいと感じるのかは、人それぞれです。
だからこそ、その人の「やりたいこと」を聞いて、そこに向かって一緒に身体を整えていく。人生を楽しむために、身体の面からできることをする。それが、僕の考えるリハビリテーションです。


日本のみなさんへのメッセージ

オーストラリアで理学療法士として働き、「Moto Physio」を立ち上げ、そしていまもサッカー選手としてプレーを続ける葛山さんですが、これから先、さらにチャレンジしてみたいことはありますか?

これから挑戦したいことは大きく2つあります。
1つは、もう一度大学院で学び、PhD(博士号)に挑戦することです。ACL(前十字靱帯)や半月板など、自分がこれまで関わってきたスポーツ領域の研究を、さらに深めたいと思っています。生活も少しずつ安定してきたので、これからは自分がやりたいことにもう少し時間を使っていきたいですね。
もう1つは、やっぱりサッカーです。いま所属しているクラブでは選手としてプレーするだけでなく、「Moto Physio」としてスポンサーもしています。将来は指導者のライセンスをとって、子どもたちにもサッカーを教えてみたいと思っています。
自分には、選手としての経験も、理学療法士としての知識もあります。その両方を活かして、子どもたちが怪我なく、楽しくサッカーを続けられるようなことができたらうれしいですね。これまでサッカーにたくさん支えてもらったので、少しずつ恩返しをしていきたいです。


ずっと大切にしてきたサッカーに、今度は自分が恩返しをしていく。その歩みがとても素敵だなと感じました。
最後に、日本でリハビリに励んでいる方や、日々患者さんと向き合うセラピストのみなさんへ、メッセージをいただけますか?

リハビリに取り組んでいる方には、ぜひセラピストと「一緒に取り組む」という気持ちをもってもらえたらと思います。
オーストラリアでは、「これがやりたいんだけど、どうしたらいい?」と患者さんから聞かれることがよくあります。セラピストに治してもらうだけではなく、自分がやりたいことに向かって、自分でも取り組んでいく。そのために、僕たち専門家をうまく使ってもらえたらと思います。
そして、日本のセラピストのみなさんには、ぜひ自分たちの仕事に誇りをもってほしいと思います。海外で働いてみて、日本の理学療法士や作業療法士、言語聴覚士が提供しているリハビリテーションの質は、本当に高いと感じています。
もちろん、海外に出て初めて見えることもたくさんあります。でも、僕のように生活を大きく変えて海外へ行くことだけが、視野を広げる方法ではありません。海外の学会に参加したり、現地の施設を見学したりするだけでも、新しい価値観に触れることはできます。
興味があれば、ぜひ外の世界も見てみてください。そして同時に、日本で培ってきた技術や経験にも自信をもってほしい。
日本のリハビリテーションには、世界に誇れるものがたくさんあると、僕は思っています。

葛山さん、素敵なメッセージをありがとうございました。
海外に出て、異なる制度や文化のなかで経験を重ねてきた葛山さんだからこそ語れる、「日本のリハビリテーションには、世界に誇れるものがたくさんある」という言葉。私自身、大きな希望と勇気をいただきました。
日本でいままさにリハビリに励まれている方にも、そして日々その歩みを支えているセラピストのみなさんにも、この言葉が届いたらうれしいです。
これからも「楽しめるカラダ」を支えながら、新たな挑戦をされる葛山さんを、リハノワは心から応援しています。
本日は、本当にありがとうございました。



以上、今回はオーストラリア・ブリスベンで理学療法クリニック「Moto Physio」を運営されている、理学療法士の葛山元基さんを紹介しました。
ひとりでも多くの方に、葛山さんの素敵な想いと魅力がお届けできれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともリハノワをよろしくお願いいたします!
かわむーでした。


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