みなさんこんにちは、リハノワ.comのかわむーです!
本日は、東日本大震災で被災後、現在は作業療法士養成校の教員としてご活躍されている中山奈保子さんをご紹介したいと思います。
中山さんは宮城県石巻市で被災後、災害支援や語り継ぐ活動、そして作業療法士としてリハビリテーションを行う中で様々な課題に向き合われてきました。
中山さんの非常に貴重なご経験やそこから派生した活動、それにかける大切な想いなど、その魅力にとことん迫っていきたいと思います。
作業療法士・中山奈保子さん
◆ 中山奈保子(なかやま・なおこ)さん
宮城県仙台市出身
<経歴>
1998年
国立仙台病院附属リハビリテーション学院作業療法士学科 卒業
宮城県内の療養型病院にて勤務
2003年
作業療法士養成校にて専任教員として勤務
2004年
石巻に移住。精神科病院に勤務
2011年
東日本大震災
三陸こざかなネット 活動開始
2013年
リハビリ専門複合型デイサービスを運営する「一般社団法人りぷらす」開設、理事就任
2018年
千葉へ移住。作業療法士養成校専任員員(現職)
10月 星槎大学大学院教育学研究科 入学
2020年
星槎大学大学院教育学研究科 卒業
中山さんが作業療法士を目指した “きっかけ” は何だったのですか?
特に崇高な理由はなくて、親に「手に職をつけろ」と言われたのが最初のきっかけでした。
小学校からフルートをやっており、高校は強豪校の吹奏楽部に入部しました。また、高校3年生の時には海外のヘビーメタルバンドをはじめ、当時人気の絶頂だったX JAPANに影響され軽音にもハマっちゃって。勉強する時間を惜しみ音楽に時間を注いでいましたね。
高校3年生で進路を決めるにあたって、親からは「女は、何か手に職をつけろ」と言われました。これまで音楽一筋で来ていたので、まずは自分ができる科目で、さらに授業料がかからず資格がとれるというのを条件に進路先を探していたら、“リハビリテーション” に出会ったんです。
当時、公立のリハビリの養成校は県内に一つしかなくて、ものすごく人気でした。PT(理学療法士)よりは倍率の低いOT(作業療法士)学科に進むことにしたんです。
なるほど。資格取得を前提に探されている中で、OTに出会ったのですね。
入学してからはどうでしたか?
1年生の7月くらいには辞めたくなってましたね(笑)
解剖学とか意味わからないし、OTって革細工とか機織りを授業でするんですけど、私は不器用で上手く出来なくて。先生に何回も辞めたいって言ってましたね。
意外な過去ですね…!
辞めずに頑張れた、作業療法が面白い!となったののは、どのタイミングだったのでしょうか。
ちょうど、2年生の1月にあった評価実習の頃ですね。
実は、我が家には10年くらい前からずっと寝たきりになっていたおじいちゃんがいたのですが、その時期に亡くなったんです。
亡くなるまでの数日間、色んなことがあったんだと後から母親から聞きました。その中で、OTが役に立ったんじゃないかって思う話があったんです。
おじいちゃんは母親に最期、「もう、天井ばかり見るのは疲れた」って話したそうなんです。
私には、その言葉が衝撃的すぎました。
「天井ばかり見る10年だったんだ…」って。
実習で見ているOTの現場は、患者さんがやる気を出すように、楽しんでもらえるように、将来につながる練習を工夫しながら行っていました。おじいちゃんも、天井ばかりみる1日ではなくて、「今日も1日楽しめた〜!」って日がこの10年で1回でもあったら、、と思うと胸が締め付けられました。
おじいさまに作業療法をするとしたら、どんなことをされましたか?
おじいちゃんは脳卒中のため身体に麻痺があり、はじめに入院した病院で長下肢装具をつけて歩く練習をするよう医師に勧められました。しかし、その時リハビリを拒否したようで、それ以降は「リハビリをやりたくない患者」だと判断されたのかリハビリがなくなっちゃんたんですよね。
結局何も練習せず自宅へ戻り、以降、寝たきりの生活が10年間続きました。
もともとカメラマンだったので、私が作業療法をするとしたらそこに視点を持っていって、やる気を出させてあげたんじゃないかなって思います。
もし、おじいちゃんのそばに作業療法があれば、10年間天井だけを見て過ごしたことはなかったのかな、と、当時学生だった私は思いました。
この出来事が、自分自身の転換期にもなり、3年生からは真面目に作業療法を勉強しました。
実習が終わり卒業する頃、そして卒業してからはより作業療法を頑張りたいな、深めていきたいなって思っていました。当時のクラス担任の先生にもすごく支えられました。
“語り継ぐ” ということ
中山さんは、宮城県石巻市に在住時に東日本大震災をご経験されたそうですね。
当時の状況やその後の歩みを、ご自身のブログ『被災地より、子供達の未来の為に。』に書き綴られています。このブログは被災直後より書かれていますが、当時、どんな状況や心境で、このブログを書き続けられていたのですか?
地震が起きた3月11日、海から200〜300mの場所にあった我が家も津波に襲われました。ゴーっと響く重低音に気づき、地震後に駆けつけてくれた義母と子ども2人(5歳の長女と1歳に長男)で自宅2階に避難しました。水は階段の最上段まで迫りましたが、2階は何とか浸水せずにすみました。そこから3日間、自宅2階の狭い部屋で水が引くのを待つことになります。
記録はその時から始めました。とっさにメモしなくちゃ、と思ったんですよね。ある映画のワンシーンが思い浮かんで、“私もやらなきゃ…!” みたいな。もちろん電気はなかったので携帯は使えず、娘の折り紙の裏にひたすら義理の母、子ども達、街の様子などを書き綴りました。
3日目に近所の開館、5日目に不安と空腹に耐えかね大きな避難所に避難し、1週間後に仙台の親戚の家に行くことができました。そこで、急に42度くらい発熱して寝込んじゃったんですよね。携帯は充電でき復活したので、寝込みながらこれまでの経験をブログに書き綴りました。
ブログに書き綴る、ということは、中山さんにとってどんな意味があったのでしょうか。
周りがみんな「うちはどうする!?」「家族が見つからない」とか混乱している中で、自分の不安を話すことはできませんでした。だから、ブログに書き綴ることで自分の想いを吐き出せていた感じですかね。ブログだったら、読みたい人だけ読むから。
あとは、被災後の日々をどうやったら子ども達が忘れないでいてくれるのかと思いながら書いていました。
忘れて欲しくないことは、決して、震災当時の「怖かった」とか「逃げた」とかいう記憶ではありません。その後の「助けてもらった」「ほっとした」「頑張ってこれができた」という思いを忘れて欲しくなったんです。
地震の怖さや防災は学校で教えてもらえます。なので、そこではない人の温かさとか自分たちが前向きに歩んだ軌跡を、伝えていきたいと思ったんです。一方で、どうやったら怖がらずに伝えられるかということにはとても悩みました。
前向きな思い出を子ども達に語り継いでいきたくて、思いついたことはどんどんやっていた感じですね。
当時の子ども達が大人になった時に、自分の子どもに語り継いでくれるといいですね。
子ども達から学んだ世界
震災後から “語り継ぐ” ということに力を入れられている中山さんですが、震災を通してご自身の中で何か変わったことはありましたか?
自分自身の生き方は、ものすごく変わりましたね。震災の体験が悲しみや苦しみとなり抜け出せない方は沢山いるけれど、私の場合はプラスに転じたことが多いかなと思います。
もちろん、津波で家族やお友達がなくなったり、子ども達に迷惑かけたりもしてネガティブなことはあったんだけど、やっぱり、ポジティブなこともあったからこそ今このように学びを得ていることが多いのかなと思います。たくさんの出会いにも恵まれました。
当時、まだ幼いお子さんが2人いた状況でしたが、“子育て” に関しては何か変わったことなどありましたか?
子育てのあり方はとても変わりました。
震災後、子ども達は親がいなくても、ボランティアさんなど家族を越えて色んな大人と接しながら成長していくんですよね。そんな姿を見ながら「この子達は私と全然違う力を持った人だ」って、子どもが客観的に見えるようになりました。
私と全然違う特技を持っているし、視点だって違う。例えば、私にはただの青い空に見えても、娘には雲の上で友達が遊んでるって見えるんです。私があぁしなさい、こうしなさい、と言うのは違うんだ、自分とは違う人なんだ、って思いました。
だから、言葉のかけ方も変わりましたね。「あなたはどう感じるの?」「どう思っているの?」って聞くようになりました。もちろん家庭のルールも伝えるし成長のためにアシストはするけれど、子どもが感じている世界を尊重できるようになりました。
三陸こざかなネットとは
東日本大震災を乗り越える親子が、大震災後の日常をありのままに語り合い、それらを記録・伝承することを目的に2011年8月11日に中山さんが代表として立ち上げた団体。漫画家である副代表と企画・発刊された「震災記録漫画」は、被災した親子のみならず、被災地に心を寄せる親子から寄せられた「手記」に基づき作成された。震災記録漫画は、2012年8月から約3年間の間に5作品発刊され、全国の学校や図書館、公民館、防災センターなどを通じ読者の数を増やした。また、震災記録漫画を子ども達に読み聞かせるイベントやパネル展示会が開催され、世代を超えた交流活動にも発展した。
作業療法士として
作業療法士の中山さんが、震災を通して感じたことや、今後、挑戦していきたいことは何かありますか?
養成校で教鞭をとる中で、今後はもっと災害の体験を活かしていきたいな思っています。作業療法に活かすというよりは、患者さんに接する職種として、災害の体験は活かすことができると思っています。
災害も障害も一緒じゃないかと思うんです。弱い立場に立つと、本当に言いたい事が言葉にできなかったり、本当に伝えたいことが言葉にならなかったりすることが本当に多いんです。
それは、ある日突然言葉になることもあれば、ずっと秘密にしていることもあるし、ゆっくりゆっくり言葉になってくることもあると思います。
今から療法士になる人には、その方たちの前に立つんだよ、ということを伝えていきたいですね。
中山さんご自身も、震災で経験された言葉にすることのできない想いをブログに書き綴られていましたよね。
リハビリテーションを学ぶ中では、よく、 “寄り添う” という言葉が使われますが、中山さんは寄り添うということについてはどう考えられますか?
弱い立場の方に関わる側は、「目の前の人は障害を持っている」とか「大変な思いをした人なんだ」って、過度なフィルターを持っていることがあると思います。また、弱い立場の方自身も、バリアや隔たりといったものを感じている可能性もあります。
“患者さんの想いに寄り添う” って、言葉では簡単に言えるんですが、向こうが作るバリアやこちらが持っているフィルターがあると知った上で、その人達に関わることが大切なんだよということを知ってもらいたいですね。
人の想いに寄り添うってことがどんなことか、色んな視点から考えられる人になってほしいです。災害の体験は、そこに活かされるんじゃないかと思っています。
「ある日突然」といった点で、障害と災害は非常に似通った部分があるかと思います。
中山さんだからこそ伝えられることは本当に沢山ありますね。
そうですね、私も “私だからできること” って、絶対にあるよなって思っています。ある日突然、当たり前だった日常を奪われた人の辛さ。その日常を2度と取り戻せないと知った人々の例えがたい悲しみ。そういった事をいつも心に留めて、自分らしく過ごしていきたいですね。
私の経験をみんなにシェアして、そしてそれが少しでも日常に繋げてもらえると嬉しいです。災害とか病気・障害を実際に体験してなくても、自分ごととして捉えられるだけで日常に繋げられると思うんです。その意識を持っているだけで変わることはできます。
感じ方のプロセスっていっぱいあると思うので、そこをみんなで考えられるようになりたいですね。
声なき声を見つめ未来へ繋ぐ
最後に、中山さんが作業療法士として大切されている “モットー” を教えてください。
最近すごく大切にしているのは、弱き立場にある方の “声なき声を見るめ未来に繋ぐ” ということです。そこに、私たちが豊かに生き続けるための大切なヒントがあると思っています。
声にならないでいる気持ちや、弱い立場にある方々の生きづらさに、複雑な生活背景を丁寧に丁寧に見つめる姿勢は、大学院時代の恩師に学びました。
「声なき声」といういうのは、例えば、黙ってしまう時とか、私がこれ以上聞けないなって思った時に絶対にあると思っています。心を開いてもらったって思った時も、実はその裏には声になっていない声があると思うんです。
私は、声なき声を大切にしていきたいし、それがあることを伝えていきたいです。そしてそれらが、これから大人になる子どもたちに少しでも残ってくれればいいなと思います。
声なき声を感じ、伝え、そして語り継がれている中山さんの姿に、同じセラピストとしてだけではなく、人として大切なものをたくさん教えていただきました。
中山さんは大学院で『東日本大震災を語り継ぐ子どものライフストーリー』として、娘さんのココロの軌跡を論文にまとめられています。私も読ませていただきましたが、涙なしでは読み進められないほどのリアルが描写され、母として、また作業療法士として必死に向き合わせてきた現実、そして考え抜かれてきたたくさんの想いが詰め込まれていました。
ぜひこれからリハビリの仕事に就く方や、現在リハビリスタッフとして働かれている方に触れていただきたいなと感じました。もしご興味のある方は、中山さんのFacebookまたは当サイトのお問い合わせからご連絡ください。
とてもパワフルで前向きな中山さんの、今後のさらなるご活躍を心より楽しみにしています!
中山さんのSNS
以上、本日は東日本大震災で被災後、現在は作業療法士養成校の教員としてご活躍されている中山奈保子さんを紹介させていただきました。
一人でも多くの方に、中山さんの素敵な想いがお届けできれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともリハノワ.comをよろしくお願いいたします!
かわむーでした。
※この取材は、本人の同意を得て行なっています。本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒宜しくお願い申し上げます。
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