みなさんこんにちは、リハノワ.comのかわむーです!
本日は、多発外傷後のリハビリを乗り越え消防士になった「土居達也さん」を取材してきたので、みなさんにご紹介したいと思います。
病院での当時の治療・リハビリの様子や退院後の生活、また消防士になるためのトレーニングなど、達也さんにじっくりとお話を伺っていきたいと思います!
達也さんとリハビリ
鍛え上げられた腕で2歳になる娘さんをヒョイと抱っこし、こちらに満遍の笑を見せてくれるのは、岡山県在住の30代男性 土居達也さん。
キリッとした見た目とは裏腹に、面白いトークや普段見せる爽やかな笑顔がとっても素敵な男性です。
達也さんが不慮の事故によりICUに入室し、1ヶ月以上の寝たきり生活を経験されたのは10年前の2010年3月。
当時19歳で大学2年生だった達也さんは、春休みを利用し仲間とともにスノーボードをするため雪山へ出かけました。リフトで頂上へ上り、滑って降りてきている際に転倒し多発外傷(肝臓1/3を損傷、肋骨骨折、気胸、肺挫傷)を受傷。友人に連れられ近くの病院に行くも、病態が悪くそこの病院では見ることができなかったため、救急車で大きな病院へ転院搬送されました。転院先の病院では、緊急で肝損傷に対する手術(カテーテルによる塞栓術)を行うこととなり、術後はICUに入室しました。
ICUでは集中的な治療と管理が行われ、10日ほどでHCUへ移動。その後1ヶ月半程度ベッド上での安静期間を経て、4月末よりリハビリが開始となりました。肝臓にできた動脈瘤に対するコイル塞栓術を計4回受けるという治療をする傍ら、筋力練習や有酸素運動などのリハビリに励まれました。
70日間にわたる入院生活を経て、6月中旬に無事に自宅へ退院。2週間程度実家で療養生活を送られ、7月上旬より県外での一人暮らしを再開。秋より大学に復学されました。復学後はこれまで通りの学生生活を徐々に取り戻し、半年程度で部活(ソフトテニス)を再開、消防士になるための体力トレーニングも開始されました。
2012年夏に行われた消防士の試験に見事合格し、2013年から地元・岡山で消防士としてご活躍されています。
地獄のような日々の始まり
大学時代の達也さんは、どんな学生だったのですか?
また、怪我をした直後のことについて、もし覚えていたら可能な範囲で教えてください。
地元の岡山を離れ、県外の大学に通っていました。
もともと運動が好きで、健康スポーツ学部で学ぶ傍ら、部活はソフトテニス部に所属し大会にはレギュラーメンバーとして出場していました。冬は部活がオフ期間となるんですが、当時大学2年生だった僕はスノーボードにめちゃくちゃハマっていて、休みのたびに仲間と雪山に通っていました。
実は、事故をする数週間前も雪山に行っていて、その時に右肩を脱臼しちゃっていたんです。
なので、事故をした時、とっさに右肩をかばおうとしてか、転倒した時に手が出なかったんです。そのまま肘が右の脇腹に入るような形となり、右の肋骨や肺、そして肝臓を傷めるような感じになってしまいました。
転んだ後のこと、病院に運ばれてからのことは覚えていますか?
動くことができなかったので、レスキューの方が僕をピックアップしにきくれて下山しました。それからすぐに、一緒に来ていた友人の車で病院へ行きました。
痛みが強くて辛かったですが、その時の記憶はあります。その後はここじゃ見れん、ということで別の病院に運ばれ緊急で手術を受け、気付いたらICUのベッドの上でした。夜中だったか、その辺の記憶は定かではありません。
手術が終わってから、主治医の外科の先生から「合併症で死ぬ確率は5割で、3ヶ月はベッド上、1年くらいは入院ですよ」と言われるたのを覚えています。結果的にはベッド上安静は1ヶ月で、退院も3ヶ月でできたんですが、最初にこれを聞いた時は衝撃的でしたね。
biloma(胆汁の溜まり)というのがあって敗血症性ショックになる可能性が高く、また、門脈圧というのが良くなく肝硬変にもなりやすいためずっと救急救命センター(ICU・HCU)から出られませんでした。
ICUやHCUで過ごした日々のことは覚えていらっしゃいますか?
ICUで10日間、HCUではおそらく2ヶ月くらい過ごしました。
ICUではベッドの角度も動かせないような状況で、HCUにいったらようやく角度が変えられるようになりました。肝臓を守るため、とのことでした。
いやぁ、ベッドから動けない生活というのは本当に“地獄” でしたね。
でも、入院して1ヶ月くらい経った頃にケータイを使っても良いという許可がおりました。正直あれでかなり生き返りました。地元や大学の友人、バイト先などにすぐに連絡しました。“外とのつながり” というか、“社会の中の自分” みたいなのを取り戻せてものすごく嬉しかったです。
4月下旬ごろ(入院から1ヶ月半)から動けるようになり、自分でできることが増えるようになってからは、医療スタッフの人とコミュニケーションとるのもすごく楽しくなってきて、苦痛とかは減っていきました。
入院中のリハビリ
入院中のリハビリというのは、どのような感じで進んでいったのですか?
ICUにいる時は、リハビリ自体なかったです。動いちゃダメと言われていたので、ひたすら寝てましたね。自由に見れるテレビがあったので、それを見て暇をつぶしていました。
HCUに移ってからも、安静は続きました。
入院して1ヶ月ぐらい経った頃(4月上旬)、僕、“意味わからん行動” をとり始めたんですよね(笑)Aラインっていう動脈に挿してある管やバルーンというオシッコの管がついているのに、勝手に立ち上がって脱走しようとしたんです。
実は今でも記憶はあって、“逃げなきゃ” “帰らなきゃ” って必死になっていたのを覚えています。
いわゆる“せん妄” という状態になっていたのかもしれませんね。
1ヶ月間ベッドで寝ていた人が「急に立つ」というのはかなり危なそうですが、この時の体の状況って覚えていますか?
めっちゃプルプルしましたね(笑)
1ヶ月間ベッドで寝たきりになったことで、足はやばいくらい細くなっていました。おそらく腕と同じくらい。
当然すぐに看護師さんに見つかり取り押さえられたわけですが(笑)、もし足を踏み出していたら転んでいたかもしれません。
その後、4月終わりに点滴がなくなった頃からリハビリの担当の先生が来てくれて、本格的なリハビリが始まりました。
入院して1ヶ月半経った4月下旬から、ついにリハビリが開始したんですね。
はい。その頃にはベッドから車椅子に移っていいよって許可がおりていて、まずは手のリハビリから始まりました。もともと脱臼して弱くなっていた右肩の運動とか、輪投げを使ってここに通してください、ってやつとか、小豆を箸で掴む練習など。
それからちょっとして、歩く練習も始まりました。
手すりがあるところで、まずは5mくらい歩くところから。スタスタスタ〜っと歩けたのを覚えています。ご飯も食べれるようになってだいぶ栄養もついてきていたので、最初の頃よりちょっとは持ち直してきていたんでしょうね。
そこからはすぐでした。
その日のうちにランニングマシーンを使って運動をしたり、主治医から筋トレOKの許可も出たので、ベッドで筋トレも始めました。
当時辛かった事
入院生活を送る中で、“これは辛かった” というのはどんな時でしたか?
1ヶ月以上ずっとベッド上で生活するというのは本当に辛かったです。動けないから、ひたすら天井を見るだけの生活でした。
開き直って、「もうこんなに寝られることはないんだろうな、だから寝てやろう!」って思ったんですが、まぁ飽きますよね。
ベッドで寝ている時はずっと「外に出たいなぁ」と思っていました。風を感じたかったんです。
だから、初めて車椅子で外に出た時は本当に感動しました。ちょうど桜も咲いていて、あれは良かったですね。
19歳で活動的だった学生が、急にベッド上での寝たきりの生活を送ることになったのですものね。
その時の達也さんの苦痛は容易に想像されます。
そう、19歳の男の子ですよ。
だから、排泄の介護は本当に嫌でしたね。女性の看護師さんが多かったですし。まぁでもその苦痛も最初だけでしたが。諦めがつくと、意外と慣れちゃうもんなんですよね(笑)
あとは、経過で尿路感染になった時も辛かったです。40度くらいの熱が3日くらい続いて、震えのような症状も出ました。その時のバルーンカテーテルの入れ替えも辛かったです。
確かにそれは辛いですね…。
はい。あとは、体が疲れないから夜寝れないのにも悩まされました。
ICUでは眠りにつける点滴をしてもらっていました。す〜っと一瞬で眠りにつけるので気持ちよかったのを覚えています。
憧れの “消防士” への道
退院後は、どんなトレーニングを行われたのですか?
退院してすぐは体力が相当落ちていたので、日常生活を送りながら、自主リハビリとして少しずつランニングや筋トレを行いました。筋トレは、腹筋や腕立て伏せ等です。
それから2年後に消防士の試験を受けることになるのですが、当時もう消防士になることは決めていたので、体力は絶対落とさないようにとトレーニングに励んでいましたね。
消防士は試験で体力テストがあると聞いたことがありますが、そのためのトレーニングは、どんな感じで行われたのですか?
試験の項目にあわせてトレーニングを行いました。項目は、例えば、腕立て伏せ、状態起こし、反復横跳び、立ち幅跳び、シャトルランなどです。
僕は、走ることと腕立て伏せ、腹筋を集中的に行っていました。
そのトレーニングをする頃にはすっかり体力は元どおりに戻っていました。
毎日日課的にトレーニングをしていましたが、もともと体を動かすのが好きなので全く苦ではなかったですね。
半年間休学となったため、同級生の方と一緒に卒業することも叶わなかったとのことですが、それでも一生懸命リハビリやトレーニングに励まれた、当時の達也さんの “原動力” というのは一体なんだったのですか?
そうですねぇ、特に自分は “頑張った” という自覚はないですね。
ただ、「消防に入りたい!!」という大きな目標があったから、頑張れたんだと思います。夢に向かって、ただひたすら突っ走っていましたね。
消防士になった今は、“家族” が大きな原動力になっています。守るものがあると、人って強くいられるなと思います。
消防士になられた今、かなりご活躍されていると伺っています。
いえいえ、まぁ、色んな葛藤もありながら日々仕事していますよ。
僕の所属は田舎の隊なので、全部をやるんですよね。レスキュー(救助)も消防も。だから、やりがいはあると思います。速さや正確さを競う救助隊の大会では、賞ももらいました。
しかし、経験年数も上がるにつれ、救助することが不可能な事案を経験することも増えるようになりました。そんな時は、消防学校の同期とか知り合いに「こんな時どうする?」ということを相談しながら、自分達のやり方を見つけていくようにしています。
そうすることが、自分たちの技術とか知識につながって、それが最終的には市民のためになるのではないかと考えています。
メッセージ
最後に、同じようにリハビリに励まれている方へ、何か “メッセージ” があればお願いします。
僕は、入院していた時とかは特に “自分が一番” という状態になってしまっていて、腹が立ったら身内に当たってみたり、色んなことを投げ出して自分の世話をしてくれているのに、それを知りながらも突き放してしまったりしていました。
僕はそのことを後々、とても後悔することになりました。
だから、もし今皆さんの周りに、自分自身を励ましてくれる人や支えてくれる人がいたら、その人のことを “大切に” して欲しいなと感じます。
“ありがとう” の一言で救われることもあるかもしれませんね。
父親になってより一層人を大切にされている達也さんから、とても温かい言葉をいただきました。
これからも消防士として、そして一家の大黒柱として、さらなるご活躍を心より楽しみにしております。
達也さん、本日はありがというございました。
以上、本日は多発外傷後のリハビリを乗り越え消防士になった「土居達也さん」を紹介させていただきました。
一人でも多くの方に、達也さんの素敵な想いがお届けできれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともリハノワ.comをよろしくお願いいたします!
かわむーでした。
※この取材は、本人の同意を得て行なっています。本投稿に使用されている写真の転載は固くお断りいたしますので、何卒宜しくお願い申し上げます。
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