この記事では、リハノワ.comの代表で理学療法士の私「かわむー」について、簡単に自己紹介させて頂きたいと思います。
自分のことについて書き綴るのは何だか恥ずかしい気もしますが、もし宜しければ、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
リハノワ代表・かわむー

◆ 本名:河村由実子(かわむら・ゆみこ)
・生年月日:1991年2月25日
・出身:広島県廿日市市
・趣味:家庭焙煎珈琲(生豆から焙煎します)、お酒、旅行、猫
<資格>
・理学療法士
・認定理学療法士(呼吸領域)
・呼吸療法認定士
・FCCSプロバイダー
<経歴・活動>
小学校〜高校時代
ソフトテニス漬けの毎日を送る
(中学・高校・大学でキャプテン)
2013年
・理学療法士免許取得
・亀田総合病院(千葉県)入職
2017年
・県立広島病院(広島県)入職
・集中治療室(ICU)の専任となる
2018年
・広島の若手医療コミュニティ『HBD』運営メンバー
月1回のイベントを企画・運営
2019年9月
・FMはつかいち メインパーソナリティ
医療系トークバラエティ番組『医どばた食堂』月2回放送
2019年11月
・webメディア『リハノワ.com』設立
2020年
・ICUの早期離床・リハビリテーション加算 立ち上げ
・ICUにおける『オンライン面会』システム構築
・種子島のバリアフリー宿屋 立ち上げお手伝い
2021年1月
・広島のリハビリコミュニティ『リハの輪@ひろしま』設立
2021年4月
・リハノワの活動に専念するため病院を退職し個人事業主として独立
・拠点を広島から関東に移す



原体験は “悔しさ”
わたしがリハビリテーション、そして理学療法士の道に進もうと思ったきっかけは “悔しさ”でした。
■リハビリテーションに興味を持ったきっかけ
7つ年上の従姉が、私が中学生のころに難病に罹りました。
彼女は20代という若さでこの世を去りましたが、亡くなる直前に、酸素ボンベなどを携帯した状態でリハビリの先生に付き添ってもらい、親戚の結婚式に参列していました。そして、私が次にその先生に会ったのはお姉さんのお葬式のとき。先生は、ずっと従姉と一緒に作っていたという折り紙の作品を棺に入れてくれました。
お姉さん的存在で大好きな従姉だったのに、亡くなる前の1年間は病院に近づくこともできなかった私。一方で、最期まで従姉のそばで支えてくれていた先生。私も本当はすごく会いたかったし、最期の最期まで寄り添っていたかった。そんな悔しさとともに、最期まで患者に寄り添い、目の前の人や家族など多くの人の “人生を支援する仕事” って素晴らしいなと思い、リハビリの道に進むことを決意しました。
最近になって、当時の先生がまだその病院に勤めていることを知りました。いつか立派になって、先生に会いに行くことを密かな目標としています。
■ 理学療法士を選んだきっかけ
理学療法士を選んだのは、高校時代ソフトテニスの部活中に足首を捻挫してしまい、理学療法士と直接関わったのがきっかけです。
自主練習などのリハビリを指導してもらいましたが、強豪校のキャプテンだったということもあり継続的にリハビリに取り組むことができませんでした。必要性は分かるものの、練習に戻りたい焦る気持ちと、リハビリの先生の目が離れたら少々いいや、という気持ちが重なり、どうしてもモチベーションが維持・継続できませんでした。その後、何度も捻挫を繰り返しました。
“どうやったらリハビリって継続できるんだろう?”
と当時高校生だった私は考えました。それと同時に、自主練習のみ指導するだけでは同じことの繰り返しになるのではないか?という医療に対する疑問と悔しさのようなものを感じました。
“私が、リハビリを継続できる仕組みを作りたい”
今思ば、当時の私の感覚は、間違っていはいなかった。理学療法士になった今でも、大きな課題として向き合い続けています。原体験があるからこそ、自分ごととして取り組めています。

これまでの歩み
■ スポーツ一筋だった世界から医療の世界へ
小学校からソフトテニスをはじめ、将来は、「実業団でテニスをしながら食べていきたい」と思っていました。しかし、現実はそう甘くはありません。高校時代の戦績もいまいち、さらにはソフトテニスで食べていくにあたり女性の選手生命なども考えると「生涯ソフトテニスで食べていく」など無理だということを高校時代に思い知ります。そして私は、高校3年生の時に、道を方向転換しました。
これまでのテニス人生、私は多くの人に支えられてきました。思うような戦績が残せなかった悔しい経験は、“人の痛みに寄り添い、支える” ということの意味と重要性を教えてくれました。
“これからは自分が社会のために、人のために、支えになる仕事をしていきたい”
医療の世界へ進むことを決意しました。大学入学当時は、これまでテニスに注ぎ込んでいた情熱を全て勉強に捧げました。スポーツでは裏切られていた努力も、勉強では全て引き出しとなり自分のものとなりました。勉強が楽しくて仕方なく、育成担当を拝命され後輩指導にも力を注ぎました。
■ 理学療法士としてのスタート
大学を卒業し、無事に理学療法士免許を取得。最初の就職は、多くの知見を得たいという思いから千葉県の亀田総合病院を選びました。病床数は民間の病院では日本一、リハビリスタッフだけでも250名を超える大組織でした。ここで、運動器、脳血管、内部障害(呼吸、循環、救急・集中治療)と多くの急性期リハビリを経験します。自身の専門分野となる「集中治療領域」には、臨床3年目から関わり始めました。
■ 地元広島へ
臨床5年目で地元・広島へ戻りました。県立病院のため県の職員(公務員)という立場で臨床を経験。民間病院と公立病院の違いを肌で感じました。
ここでは、集中治療分野に力を入れていきたいことを面接時より主張し、救命センターの専属として配属が決定。当時、リハビリの文化がなかったICUに早期離床・リハビリテーションの文化を築くため、救急・集中治療分野の知識を一生懸命詰め込みながら、医師・看護師・薬剤師・管理栄養士など多くの職種と連携するコミュニケーションを学びました。
■ ICU現場の課題から <転換期>
ICUの現場で、私は自身にできる医療行為(点滴や処置をする、人工呼吸器の設定を変更する等)があまりにも少ないため、かなりもどかしさを感じました。しかしそれが、リハビリテーションの価値や存在意義について改め考える良い機会になったのです。
ICUにおいて私が提供できるもの、それは、
その人の “人生をより豊かにするため、QOL(人生や生活の質)を上げること” でした。
目の前の人を笑顔にするために、私には何ができるだろうか。そんなことを常に考え、厳しい状況にある方々に真摯に向き合いました。
そのようなことを考える中で、公衆衛生の考え方に出会います。いわゆる「ポピュレーションアプローチ」の重要性を痛感し、ご縁あって、地元のFM局でラジオ番組を持たせてもらえるようになったり、リハノワ.comというメディアを立ち上げることになったりしました。ラジオとリハノワを始めたきっかけは、また別の記事で改めて文字にしたいと思います。


わたしの描く未来
私のモットーは、どんな時も『目の前の人を笑顔でhappyにする』ことです。
目の前の人を笑顔でhappyにするために、自分自身がこれまで力を注いできたリハビリの知識や経験を生かしていきたい。私は、文字で表現することと、そして、人の良いところを引き出し輪を繋げていくことが得意です。これらの想いと得意な手段を組み合わせて、活動していくことを決意しました。
“ひとりの元気を、みんなの元気に”
私は、こんな未来を描いています。
自分が元気になることで、周りが元気に。
周りが元気になることで、社会が元気に。
社会が元気になることで、日本が元気に。
これからも様々な現場に足を運び、多くの方の声に耳を傾け、私なりの表現で未来を創造し、皆さんに元気をお届けしていきます。
リハノワの力で、誰か一人でも笑顔でhappyになることを祈って。
2021年4月
代表・かわむー

メディア掲載
・2020年 日経メディカル
『テレビ電話を使った遠隔面会の実際』
・2020年 エムスリー
『患者の一言からオンライン面会プロジェクト開始-河村由実子・県立広島病院ICU専任理学療法士らに聞く vol.1』
・ファッション情報誌 COLORFUL
『世代を創る広島人』
・2021年日本理学療法士会 リガクラボ
『ラジオ番組とウェブメディアで、予防医療の大切さ患者の声を届ける理学療法士』
・2021年 webメディア てまえ
『彩』代表
・2021年 FMはつかいち
『山本しのぶのポワントワーク』

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